ドイツにおける1848年革命
[Wikipedia|▼Menu]
ゲルマニア』、フィリップ・ファイト画、1848年ドイツ国旗の起源となった黒・赤・金旗を振る市民(ベルリン三月革命)1848年革命下のヨーロッパ

ドイツにおける1848年革命(ドイツにおける1848ねんかくめい、ドイツ語: Revolution 1848/1849 in Deutschland、英語: Revolutions of 1848 in the German states)または三月革命(さんがつかくめい、ドイツ語: Marzrevolution、英語: March Revolution)は、ヨーロッパ諸国に起こった1848年革命のうち、オーストリア帝国を含むドイツ連邦各地に起こった連鎖的抗争。旧神聖ローマ帝国のドイツ系領域を引き継いだがいまだ39か国の独立国の連合にすぎなかったドイツ連邦の中にあって、革命においては汎ゲルマン主義が鼓舞され、伝統的・専制的政治体制への国民的不満、ドイツ関税同盟への国民的期待が表明された。

革命において、中産階層は自由主義に傾倒していたが、労働者階層はその労働・生活条件の急進的改善を要求しており、両者の革命の方向性の対立から、保守的王侯貴族による反革命が成功した。自由主義者は政治的迫害を逃れるために亡命を余儀なくされ、多くはアメリカ合衆国に移住してウィスコンシン州やテキサス州に落ち着き、フォーティエイターズと呼ばれた。
革命の背景「ウィーン体制」、「反ユダヤ主義#ウィーン体制(1815-1848)の時代」、および「三月前期(ドイツ語版)」も参照1832年のハンバッハ祭、ハンバッハ城への行列

ナポレオン敗北以降のウィーン体制ではフランス革命以前への復古が目指された[1][2]。ドイツでは、オーストリア帝国主導でかつての神聖ローマ帝国の領域にほぼ合致したドイツ連邦(Deutscher Bund)が成立した[3]。しかし、ドイツ連邦はかつての神聖ローマ帝国の再興とはいいがたく、ナポレオン統治下の陪臣化で消滅した群小諸邦の君侯は復位できなかった[4]。また、従来の領邦国家体制と変わらず、ドイツ解放戦争で一体となって戦い、国民的な国家を期待していたドイツ国民は失望した[3]。ライン川西岸一帯のラインラントプロイセン王国に割譲され、また、プロイセンはオーストリア主導に反発を強めた。

エルンスト・アルントの発案で1814年10月に諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)1周年記念式典が催され、最初のドイツ国民祝祭となった[3]。ドイツ解放戦争に志願兵として参加した学生たちはドイツ国民の統一国家を期待していたが、ウィーン体制ではドイツの君主国諸国家への分裂を固定化されたため不満を抱いて、ブルシェンシャフト学生運動を展開した[5]1815年に結成されたブルシェンシャフト主流派のイェーナ大学の結社は愛国心の涵養と心身練磨をはかり、ギーセン大学のカール・フォレン(ドイツ語版)はドイツに自由で平等な共和国を目指した[5]

1819年3月には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄した作家アウグスト・フォン・コツェブー(ドイツ語版)(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして過激派の学生に暗殺された[3][6][7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:163 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef