トール・ヘイエルダール
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トール・ヘイエルダール
1980年当時のトール・ヘイエルダール
生誕 (1914-10-06) 1914年10月6日
 ノルウェーヴェストフォル県ラルヴィク
死没2002年4月18日(2002-04-18)(87歳)
イタリアサヴォーナ県コッラ・ミケリ(英語版)
国籍 ノルウェー
研究分野人類学
冒険者
出身校オスロ大学
博士課程
指導教員クリスティン・ボネヴィー(英語版)
ヒャルマー・ブロッホ(英語版)
主な受賞歴ムンゴ・パーク・メダル(英語版) (1950)
配偶者リーブ・コケロン・トルプ(ノルウェー語版)
(1936-1947)
ヨォーン・デデカム=シモンセン
(1949-1969)
ジャクリーン・ビアー(英語版)
(1991-2002)
子供5
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トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl [tu?r ?ha?????l] ⇒発音例, 1914年10月6日 - 2002年4月18日)は、ノルウェー人類学者、海洋生物学者、探検家1947年(いかだ)船のコンティキ号ペルーカヤオ港から南太平洋トゥアモトゥ諸島ラロイア環礁(英語版)まで4,300マイル(8千km弱)の航海を行った。
来歴・人物

ヘイエルダールは、ノルウェーのラルヴィクで、醸造家のトール・ヘイエルダール(1869?1957年)と妻のアリソン・リン(1873?1965年)の息子として生まれた。幼少の頃、ヘイエルダールはチャールズ・ダーウィンの進化論に強い関心を持っていた母親に触発され、動物学に強い関心を示した。彼は幼少時代の家に小さな博物館を作り、ヨーロッパクサリヘビ(Vipera berus)を主な関心としていた。

彼はオスロ大学の生物科学部で動物学と地理学を学んだ。同時に、彼はポリネシアの文化と歴史を個人的に研究し、オスロの裕福なワイン商人であるビャルネ・クローペリエン(Bjarne Kroepelien)が所有するポリネシアに関する当時の世界最大の書籍や論文のコレクションを調べた(このコレクションは後にオスロ大学図書館がクローペリエンの相続人から購入、コンチキ博物館の研究部門に所蔵)。

7つの用語とベルリンの専門家との協議の後、プロジェクトが開発され、ヘイエルダールの動物学教授であるクリスティン・ボネヴィー(英語版)とヒャルマー・ブロッホ(英語版) が後援した。彼はいくつかの孤立した太平洋の島のグループを訪問し、地元の動物がどのようにそこに道を見つけたかを研究することだった。

1936年にマルケサス諸島に一緒に航海する直前に、ヘイエルダールは大学に入学する少し前に会い、そこで経済学を学んだ最初の妻、リーブ・コケロン・トルプ(ノルウェー語版)(1916-1969)と結婚した。2人の息子トールジュニアとビョルンをもうけたが、のちに離婚した。

1937年、大学卒業とともに、妻のリーブと一緒にポリネシアのファツ・ヒバ島を訪れ、現地人と同じ暮らしをおくる。この体験は著書『ファツ・ヒバ』にまとめられている。この時、ポリネシア人の南アメリカ起源説を思い付く。

ナチス・ドイツによるノルウェー占領後、彼は1944年からフィンランド北部のフィンマルク県で自由ノルウェー軍(英語版)に参加した。

1949年、ヘイエルダールはヨーン・デデカム=シモンセン(1924-2006)と二度目の結婚で、3人の娘(アネット、マリアン、ヘレン・エリーザベト)をもうけたが、1969年に離婚した[1]

1955年から1956年、ヘイエルダールはイースター島の巨大石像を調査し、南アメリカとの関係がさらに深いと確信した。この記録は著書『アク・アク』にまとめられている。

1991年、ヘイエルダールは ジャクリーン・ビアー(英語版)(1932年生まれ)と、3番目の結婚をした。彼らはカナリア諸島テネリフェに住んでおり、特にペルーのツクーメ(Tucume)、アゾフでの考古学プロジェクトに非常に積極的に関与していた。彼は亡くなるまでサモアで考古学プロジェクトに着手したいと考えていた。

ヘイエルダールは2002年4月18日にイタリアリグーリア州コッラ・ミケリ(英語版)で亡くなった、晩年はそこで最後の家族とイースター休暇を過ごした。ノルウェー政府は、2002年4月26日にオスロ大聖堂国葬で送った。遺体はコッラ・ミケリの自宅の庭に埋葬されている。なお、ヘイエルダールは無神論者だった。
漂流実験

1947年当時はポリネシアの島々の住人(ポリネシア人)の起源は謎とされており、ヘイエルダール自身も調査を行った。その結果、南米ペルーにある石の像とポリネシアにある石の像が類似していること、植物の呼び方が似ていることなどを踏まえ、ポリネシアの住人の起源は南米にあると論文で発表した。しかしこの説は学会からの反対にあった。当時の技術では船で行き来することなど不可能であるというのがその理由だった。

1947年、ヘイエルダールとそのチームは、南米のバルサ材およびその他の地元の材料を用い、インカ帝国時代の船を模したコンティキ号を建造し、ペルーからイースター島への航海に挑戦した。巨石文化がインカ帝国から海を渡ってイースター島に伝えられ、同島に残るモアイ像が作られたことを実証しようとしたのである。コンティキはインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名で、いかだはインカ帝国を征服した当時のスペイン人たちが描いた図面を元に設計された。

コンティキ号は1947年4月28日に5人の仲間と1羽のオウムと共に出航し、曳航船によってフンボルト海流を越えた後は漂流しながらイースター島を目指した。一行は出航から97日目に、トゥアモトゥ諸島のプカプカ環礁(英語版)を望見しポリネシアにたどり着いたが、出航102日目の1947年8月7日にトゥアモトゥ諸島のラロイア環礁でコンティキ号は座礁した。

ヘイエルダールは1948年に漂流航海の模様をまとめた著書『コン・ティキ号探検記』を発表。同書は62ヶ国語に翻訳され、2000万部以上の大ベストセラーとなった[2]。また、彼らの航海を描いた長編ドキュメンタリー映画『Kon-Tiki』は、1951年アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞している。

「漂流」には、当時(1940年代)の航法機器やボートなども使用していた。また、アマチュア無線によりノルウェーを含む世界各国との交信を行っていた(コンティキ号#概要)。食料に関しては、実験を名目にアメリカ軍から提供された保存食の他は海中から得た。ヘイエルダールは、「インディオの航海技術を立証するのが目的で、我々がインディオになる必要は無い」と述べていて、最初は保存食を用意して航海に臨むつもりだったようである。「筏のロープが波で擦り切れる」とか「バルサが水を吸って沈没するはず」など、航海前に出された否定的な意見を覆したことで評判を呼んだ。ただし、建造を急ぐため乾燥していないバルサを使ったのが偶然に吉と出て、乾燥したバルサを使っていれば、海水の吸収が早くて沈没していた可能性があるとヘイエルダールは認めている。

1964年には、南太平洋の探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[3]


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