トーリー党_(イギリス)
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イギリス政党トーリー党
Tories

成立年月日1678年
解散年月日1830年代
解散理由党の改称による
後継政党保守党
政治的思想・立場中道右派[1] - 右派[2]
保守主義[3]
王権神授説[4]
公式カラー青
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トーリー党(トーリーとう、Tory Party)は、かつて存在したイギリス政党。現在の保守党の前身にあたる。チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位を認める立場をとった人達をさして「Tory」(アイルランドにおけるイングランド人やプロテスタントを狙った強盗)と言ったのが始まりである。
歴史
王位継承問題

1660年清教徒革命後の王政復古を受けて即位したイングランド王チャールズ2世には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズ2世の弟、ヨーク公ジェームズが目されていた。しかしジェームズはカトリックであり、プロテスタントイングランド国教会国教としているイングランドではカトリックの王を頂くことに対して強い抵抗感があった。この後継問題はイングランド議会においてもジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となった。ここで反対派が賛成派を指してToryと呼んだのがトーリーの始まりである。論争以前にチャールズ2世の側近であったダンビー伯トマス・オズボーンが議会内部に宮廷党と呼ばれる与党勢力を築いたのが起源で、かつてチャールズ2世の側近で王位継承問題で野党に転じたシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーが結成したグループが後のホイッグ党に転じた。

トーリー党は王権神授説と国教会支持から王権を尊重、ホイッグ党は議会と非国教徒への寛容を重要視していた。こうした背景からトーリー党は王位継承に口を出すことに抵抗を感じ、一方のホイッグ党は議会による王権の制限を目論んでいた。ただ、この時点で両者ともまとまっていたグループとは言えず、複数の派閥で形成されていた。

1678年にほら話から始まった集団ヒステリーのカトリック陰謀事件で無実のカトリック教徒が多数処刑され、カトリックに対する恐怖からジェームズもフランスルイ14世との関与を疑われ、シャフツベリ伯ら野党の非難にさらされた。ダンビー伯もフランスとの秘密交渉が発覚して窮地に立たされ、チャールズ2世は弟と側近を守るため翌1679年に議会を解散したが、野党の非難は止まずジェームズはイングランドから出国、ダンビー伯はロンドン塔へ投獄され、シャフツベリ伯らホイッグ党が総選挙に大勝、新たに開かれた議会で与党となったホイッグ党が王位排除法案を提出した。この法律でジェームズの王位継承を阻止、合わせてチャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットを嫡子に格上げさせて次の王とするのが狙いであった。しかし、チャールズ2世は法案を拒絶してまたもや議会を解散、以後も法案提出と解散が繰り返され、最終的に1681年の解散以降チャールズ2世は議会を開かなかった。

チャールズ2世は解散後に反撃に打って出た。ルイ14世から資金援助を受けたことと、自分の資金源である貿易関税・物品税からの収入が増えたため議会から課税の同意を取り付ける必要がなくなり、開会することなく政権運営が出来た。加えて、ホイッグ党の支持基盤が都市である点に目を付け、都市の権利を認める特許状の剥奪と再交付でトーリー党に転じさせ、地方に準拠する治安判事もトーリー派に交替させることによりトーリー党の勢力拡大に成功、シャフツベリ伯はロンドン塔へ投獄され(同年に釈放)、1682年の地方選挙でトーリー党優勢となり、ジェームズも帰国を許された。同年の武装蜂起未遂でシャフツベリ伯はオランダ亡命、翌1683年に死去した。ライハウス陰謀事件でホイッグ党の他の指導者層も処刑され没落、モンマスも関与を疑われオランダへ亡命したため、チャールズ2世の政権は安泰となり1685年の死後にジェームズが王位を継承した[5]

「トーリー(Tory)」はアイルランド語の「toraidhe」から来ており、その意味は「ならず者」や「盗賊」と言う意味である。歴史的にイングランドの支配に対抗して、イングランド人やプロテスタントの定住者を襲っていたという側面を持ち、アイルランドの視点では義賊扱いされることもある。このため、イングランドやプロテスタントの視点から見て、カトリックの王を立てようとする相手を侮蔑してトーリー(すなわち、アイルランドあるいはカトリックの盗賊共の意味になる)と呼んだ。一方即位を認める者達は、即位を認めない者達を指して「Whig」スコットランド語で「謀反人」、「馬泥棒」と言うあだ名を付けた。この呼び方もホイッグ党の始まりになった。なお、この時点でホイッグ、トーリーとも現在のような綱領を採択して党として一致した政策の実現を目指す政党(Party)ではなく、あくまでもジェームズの即位問題にのみ特化されたグループである。
名誉革命

トーリーがジェームズの即位を認めたのは、彼らが王党派であったこと以上に、ジェームズにも嫡子がおらず、カトリックの彼が即位したとしても、それはジェームズの1代限りで終わるという諦めが在ったからである。当初ジェームズ2世は現状維持を約束したためトーリー党が過半数の議会は安堵、モンマスの反乱もすぐさま鎮圧され平穏な治世となるはずだった。ところが、カトリックの王ジェームズ2世は反乱後も常備軍を解散せず、カトリック保護政策を打ち出して1687年と翌年の信仰自由宣言で非国教徒とカトリック教徒の保護を宣言、腹心のカトリック教徒を要職に取り立て、兄と同じく地方への選挙工作を行い、既にイングランドでは時代遅れになりつつあった絶対王政的な態度をとり始めた。しかし、これにもトーリー、ホイッグともにジェームズ2世の1代限りと諦めるしかなかったのである。

ところが1688年、ジェームズ2世の王妃メアリーに王子ジェームズが生まれると事態は一変し、ジェームズ2世の後もカトリックの王が即位する可能性が出てきてしまった。ここにジェームズ2世の即位に応じたトーリーも反対派のホイッグと協力してジェームズ2世をイングランドから追い出す画策をはじめる。オランダからジェームズ2世の娘メアリーと夫でジェームズ2世の甥でもあるオランダ総督ウィレム3世を招き寄せメアリー2世、ウィリアム3世として即位させ、ジェームズ2世とその家族は抵抗を諦めてフランスに亡命させられた。これが名誉革命である。

1689年で議会が開かれるとウィリアム3世とメアリー2世の王位が認められた。トーリー党はジェームズ2世に反対していたが、王位尊重の立場からジェームズ2世の後の王位変更にためらっていたが、結局妥協してウィリアム3世・メアリー2世を新国王として認めた。また、ウィリアム3世によって両派から革命の功労者である政治家が要職に取り立てられ、バランスを取った形となった。しかし、大同盟戦争を通じて戦時体制を整える必要が出来ると、この期待に応えたのがホイッグ党の政治家達であり、議会でホイッグ党が逆転して多数派になったこともあり、トーリー党員は政権から排除されジャントーと呼ばれるホイッグ党の幹部が取り立てられ、1694年にホイッグ党政権が出来上がった。終戦後はトーリー党の巻き返しでホイッグ党政権は倒れ、1700年に新たにトーリー党政権が成立した。大同盟戦争を通して戦争に対する方針も出来上がり、ホイッグ党は積極的に大陸政策を支持するようになり、トーリー党は反戦的で海上制覇を重視するようになっていった[6]
二大政党制の確立

1694年にメアリー2世が、1702年にウィリアム3世が死去、メアリー2世の妹アンが即位した。アンは熱心な国教徒でホイッグ党を嫌っていたことから治世中の殆どはトーリー党中心の政権だった。スペイン継承戦争勃発時に大蔵卿として政権の中心に立っていたシドニー・ゴドルフィンは穏健派でアンとの繋がりが深く、友人のマールバラ公ジョン・チャーチルはトーリー党寄りながら大陸政策を支持しており、妻のサラ・ジェニングスがアンの親友だったことから政権は政党よりアンとの個人関係に依る所が大きく、党派色が薄い中道派であった。


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