トーリ・エイモス
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トーリ・エイモス(2007年) デュー・ドロップ・イン・ツアー(1996年) 2003年 サマー・オブ・シン・ツアー(2005年)で二台のピアノを同時に弾きながら歌うエイモス アメリカ人形軍団ツアー(2007年)で、ピップというキャラクターに扮して

トーリ・エイモス(Tori Amos、1963年8月22日 - )は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、ピアニスト。本名はマイラ・エレン・エイモス(Myra Ellen Amos)。
目次

1 略歴

2 ディスコグラフィー

2.1 スタジオ・アルバム

2.2 ライヴ・アルバム

2.3 コンピレーション・アルバム

2.4 その他


3 使用楽器

4 脚注

5 外部リンク

略歴

ワシントンD.C.ジョージタウンに住む父エディソン・エイモスと母メアリー・エレン・エイモスの3人目の子供として、旅行中にノースカロライナ州ニュートンの病院で生まれた。母方の祖父母はヨーロッパ人と東部チェロキー族の血を引いている。一家は2歳のときにメリーランド州ボルチモアに移り、そこでピアノを始めた。5歳のときには作曲と作詞を始めた。1968年同州ロックビルでピーボディ音楽院の奨学生となり、同校の最年少の学生となった。11歳のときに奨学金が打ち切られ、同校を去った。ロックやポピュラー音楽に興味を引かれ、楽譜を読むのを嫌ったためだと彼女は語っている。2年後にモンゴメリー短期大学で学び始めるとともに、父親に付き添われてピアノバーで演奏を始めた。父親はレコード会社に彼女の書いた曲を送った。

1977年に地元の10代タレントコンテストで「More Than Just a Friend」を歌って優勝した。高校に通うころにはワシントンD.C.地域で知られるようになった。リチャード・モントゴメリー高校では「同窓会(Homecoming)の女王」に選ばれた。また、同校の演劇グループ、ブラック・マスカーズの一員となった。兄弟のマイク・エイモスと共同で「Baltimore」を書いてオリオールズの音楽コンテストで優勝し、その曲で家族や友人のために最初のシングルを作った(B面は「Walking With You」)。このころ友人のボーイフレンドの勧めでエレンからトーリと名乗るようになった。

1987年にアトランティック・レコードと契約し[1]、1988年にY Kant Tori Readというバンドのメンバーとして同名のアルバムを発表[2]。このアルバムは商業的に失敗だったが、アトランティックとの契約は継続され、1991年には自身のレイプ体験に基づいた曲「ミー・アンド・ア・ガン」が高く評価されて[1]、1992年に初のソロ・アルバム『リトル・アースクウェイクス』を発表する。1996年に発表したアルバム『ボーイズ・フォー・ペレイ ?炎の女神?』の収録曲「プロフェッショナル・ウィドウ」は、アーマンド・ヴァン・ヘルデンによってリミックスされると1997年に全英シングルチャートで1位を獲得している[3]

歌詞のモチーフには女性であることの様々な側面を選ぶことが多い。また、父が牧師で、キリスト教の影響の強い家庭に育ったことから、家父長的な宗教への批判も見られる。

ボーイズ・フォー・ペレイ ?炎の女神?』のツアー中に自身のサウンドエンジニアを務めるマーク・ホーリーと交際し始め、1998年2月22日に結婚。以後、長年に亘ってホーリーと共にイングランドコーンウォールで暮らしており[4]、2000年9月5日に長女ナターシャ・ロリエンを出産した。

2001年発表のカバー・アルバム『ストレンジ・リトル・ガールズ』を最後にアトランティックとの契約が終了し、2002年にはエピック・レコード移籍第1弾アルバム『スカーレッツ・ウォーク』を発表した[1]

作家のニール・ゲイマンやミュージシャンのトレント・レズナーとは友人で、互いの作品を作品中で言及しあう仲である。レズナーとは『アンダー・ザ・ピンク』の中の一曲「パスト・ザ・ミッション」でデュエットしている。
ディスコグラフィー
スタジオ・アルバム


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