トーマス・J・ワトソン
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彼の息子については「トーマス・J・ワトソン・ジュニア」をご覧ください。

Thomas J Watson
トーマス・J・ワトソン
1920年代ごろ
生誕トーマス・ジョン・ワトソン
1874年2月17日
アメリカ合衆国ニューヨーク州キャンベル
死没 (1956-06-19) 1956年6月19日(82歳没)
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
職業実業家
配偶者ジャネット・M・キトリッジ(1913年4月17日結婚)
子供トーマス・J・ワトソン・ジュニア
ジェーン・ワトソン
ヘレン・ワトソン
アーサー・K・ワトソン
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トーマス・ジョン・ワトソン・シニア(Thomas John Watson, Sr.、1874年2月17日 - 1956年6月19日)は、インターナショナル・ビジネス・マシーンズ(IBM)社の初代社長である[1]。厳密には同社の「創立者」ではないが、1914年から1956年までIBMのトップとして同社を世界的大企業に育て上げた人物であり、実質上のIBMの創立者とされることが多い。IBM独自の経営スタイルと企業文化を生み出し、パンチカードを使ったタビュレーティングマシンを主力として、非常に効率的な販売組織へと成長させた。たたき上げた一流の実業家であり[2]、生前は世界一の富豪として知られ、その死に際しては「世界一偉大なセールスマン」と賞賛された[3]
生い立ちと初期の職歴

トーマス・ワトソンとジェーン・フルトン・ホワイト・ワトソンの唯一の息子としてニューヨーク州キャンベルで生まれた。上に4人の姉がいる。父はニューヨーク州の南部中央、エルマイラから西に数マイルのペインテドポストで農業と林業を営んでいた[4]。ワトソンはキャンベルにある一家の農場で働きながら1870年代末ごろに近くの小学校 District School Number Five に通い始めた[5]。10代になるとアディソンの Addison Academy に入学している[4]

職業教育を1日で放棄したワトソンは、エルマイラの Miller School of Commerce で1年間、経理とビジネスのコースをとった。1891年にその学校を退学すると、ペインテドポストの商店 Clarence Risley's Market で簿記係として週6ドルで働くようになった。1年後、近所の金物屋 (William Bronsons) の作ったオルガンとピアノを行商していたジョージ・コーンウェルについて行商するようになる。これがワトソンのセールスマンとしての原点である。コーンウェルがこの地を去ると、ワトソンは1人で行商するようになり、週に10ドルを得るようになった。その2年後、委託契約なら週に70ドル稼げることに気づく。この発見の衝撃は大きく、行商を辞めて近くの大都市バッファローに出ることを決意したほどだった[4]

バッファローで短期間だけ Wheeler and Wilcox のミシンのセールスマンを経験。トーマス・J・ワトソン・ジュニアの自伝には次のような記述がある。

ある日、父は販売契約成立を祝って道端の酒場で大酒を飲んだ。酒場が閉まったころ、彼は何もかも(馬と馬車と見本)を全て盗まれたことに気づいた。Wheeler and Wilcox は彼をクビにし、彼がなくした物の弁償を要求した。この話は当然ながら広まったため、父は別の定職を得るのに1年以上かかった。[6]

後にワトソンは飲酒についてIBMで厳しい規則を実施する。ジュニアはさらに次のように記している。

この逸話は、父が数万人の従業員に規則を強制したことを説明するのに役立っただろうが、あまりにひどい話なのでIBMの伝承とはしなかった。[6]

次の仕事は、評判の悪い興行師 C.B. Barron が創業した Buffalo Building and Loan Company の株を行商する仕事だった。生涯メソジストだったワトソンは、その仕事に就いたことを後悔した。Barron は集めた資金を持って失踪した。その次はバッファローで精肉店を開業したが、すぐに失敗し、ワトソンは金も職もない状況となった[2]

 突然の肉屋経営は以下のような経緯になります。

 このころ食料品のチェーンストアが流行り出したところで、ワトソンもブームにのり、バッファローに肉屋の店を持ちチェーンストアを作ろうとしました。

 計画としては、店員を雇い店の経営を任せ、ワトソンは店からの儲けを再投資し資金を増やし、さらにC.B. Barron 行っていた株のセールスの手数料も含め、肉屋の資金にしていくという方法でした。こうして資金が大きくなり、次々と肉屋の店舗を作りチェーンストアとして機能させていくというものでした。

 最初の店を開いて間もなくC.B. Barronがワトソンの資金まで横領して町から消え去ってしまい失敗に終わります。

 ただこのとき肉屋の経営を店員に任せる際、売り上げを胡麻化されないようにNCRのキャッシュレジスターを信用買いしています[7]
NCR

精肉店には新たに分割払いで購入したNCRキャッシュレジスターがあり、精肉店の新しいオーナーへの分割払いの引継ぎを手配する必要があった。そのためにNCRを訪れたとき、ジョン・J・レンジという人物に会い、仕事はないかと相談した。NCRに就職すると決意したワトソンは、レンジを何度も訪問し、ついに1896年11月、販売見習いとして雇われることになった[4]NCR社長だったジョン・パターソン

ジョン・ヘンリー・パターソン(英語版)率いるNCRは、当時の主要な販売組織の1つで、バッファロー支店長のジョン・J・レンジはワトソンの父親的人物となり、ワトソンは彼の販売と管理のスタイルを学んだ。1952年のインタビューでワトソンは、レンジから最も多くのことを学んだと述べている。レンジに導かれ、東部で一番のセールスマンといわれるようになり、週に100ドルを稼ぐようになった。

数年後、ニューヨーク州ロチェスターの苦戦しているNCR代理店を任された。エージェントとして35%のコミッションを得るようになり、NCRのナンバーツーだったヒュー・チャルマーズに直接報告するようになった。主要な競合相手だった Hallwood を叩くため、時々 Hallwood 製の機械を使っている店にいって破壊工作するなどの手を使い、4年でロチェスターでのNCRの独占を築いた[4]。その手腕を買われ、オハイオ州デイトンのNCR本社に配属となる[2]
独占禁止法違反事件

本社でワトソンに割り当てられた仕事は、中古キャッシュレジスター市場での競争相手を打ち負かすことだった。その手法は胸を張って合法といえるものではなかった。伝えられるところによると、ワトソンはNCRの資金を使ってNCRとは一見無関係を装った会社 Watson's Cash Register and Second Hand Exchange をマンハッタンで立ち上げた。NCRからの無制限な資金供給を背景として、利益を上げるのが目的ではないため、徐々に市場を独占していった。競争相手が弱って買収できるようになったら、即座に買収した[要出典]。その後フィラデルフィアに移って全米各地で同様の手法で中古市場の独占を図り、NCRは新品の市場で既に確立していた独占に近い状態を中古市場でも作り出すことに成功した。1908年、中古市場事業が通常の営業部門に統合されると、ワトソンは営業副本部長に就任。1910年には営業本部長に昇進し、新製品開発も担当するようになった[要出典]。

この問題のある中古販売ビジネスについて、ワトソンは後にその意味をよく理解していなかったと主張している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}実際、与えられた仕事に没頭するあまり、パターソンの深謀を完全には理解できなかったと考えられないこともない。[独自研究?]それでも、これは明らかに独占禁止法違反だった。1912年2月22日、パターソンを含むNCRの管理職30名と共に、ワトソンは独占禁止法違反で起訴された。

公判の6カ月前、後に妻となるジャネット・キトリッジと出会っている。そして公判が終わった2週間後の1913年2月13日に結婚した。裁判では有罪を宣告され、5,000ドルの罰金とマイアミ郡刑務所での1年間の収監を言い渡されている。罰金は判例から予想されていたが、収監は予想外で、ワトソンは控訴した[2]


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