トーマス・ブレーク・グラバー
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トーマス・ブレーク・グラバー
Thomas Blake Glover
長崎県グラバー園のグラバー銅像
生誕 (1838-06-06) 1838年6月6日
スコットランド
アバディーンシャイアフレーザーバラ
死没 (1911-12-16) 1911年12月16日(73歳没)
日本東京府
出身校ギムナジウム
職業実業家
配偶者グラバー・ツル
子供倉場梅吉
倉場富三郎
倉場ハナ
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グラバー(右)と岩崎弥之助グラバーと家族(1900)グラバー園

トーマス・ブレーク・グラバー(: Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人。トマス・ブレイク・グローバーとも表記。

武器商人として幕末日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。

維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船採炭製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。
生涯

スコットランド・アバディーンシャーで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバーとメアリーの間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれた。ギムナジウムを卒業した後、1859年上海へ渡り、当時東アジア最大の商社だったジャーディン・マセソン商会に入社。同年9月19日安政6年8月23日)、開港後まもない長崎に来日。同じスコットランド人K・R・マッケンジー経営の貿易支社に勤務[1]

2年後にマッケンジーが長崎を去ると、彼の事業を引き継いで、フランシス・グルーム(アーサー・ヘスケス・グルームの兄)と共に「グラバー商会」を設立。貿易業を営み、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店となった[1][2]

当初は生糸の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した[3]亀山社中とも取引を行った。また、1863年(文久3年)の長州五傑のイギリス渡航や、1865年(元治2年)の薩摩藩の五代友厚森有礼寺島宗則長澤鼎らによる薩摩藩遣英使節団の海外留学の手引きもしている[4]

グラバーは、英国聖公会の信徒で、1859年(安政6年)に来日した米国聖公会ジョン・リギンズチャニング・ウィリアムズ立教大学創設者)の両宣教師などによって私邸や英国領事館(当時、大浦の妙行寺内)を使って始められた長崎在住の外国人のための礼拝にも参加し、1862年(文久2年)に東山手11番に完成した、日本初のプロテスタント教会である英国聖公会会堂でも教会の管理人の一人を務めた[5][6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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