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トーマス・ハーディ
Thomas Hardy
誕生1840年6月2日
イングランド・ドーセット州ハイアー・ボックハンプトン(Higher Bockhampton)
死没 (1928-01-11) 1928年1月11日(87歳没)
ドーセット州ドーチェスター
職業小説家、詩人
国籍 イギリス
活動期間1867年 - 1928年
文学活動自然主義文学
代表作『カスターブリッジの市長
トーマス・ハーディ(Thomas Hardy OM, 1840年6月2日 - 1928年1月11日)は、イギリスの小説家、詩人。ドーセット州出身。トマス・ハーディと表記されることもある[1]。 1840年、トーマス・ハーディは6月2日、イングランド南部、ドーセット州の州都ドーチェスターの近郊の小さな村ハイアー・ボックハンプトン(Higher Bockhampton)に生まれた。先祖はフランスから渡来したらしいが、同名の父は石工の棟梁で、母はサクソン系の地主の家柄のジマイマ・ハンド。彼はその4人兄弟の長男として生まれ、弟妹にメアリー、ヘンリー、キャサリンがいた[2]。村の周囲には、のちに作品の架空の舞台となるエグドン・ヒース
生涯
生い立ち
1856年に学校を終えたハーディは、ドーチェスターの建築家ジョン・ヒックスのもとで年季奉公に入った。1862年にロンドンに出て、アーサー・ブロムフィールド (Arthur Blomfield) 建築事務所で働いた。建築に関する懸賞論文と懸賞製図にも当選したが、この時期には夜はキングス・カレッジに通学し、ギリシャ語、ラテン語、フランス語を学ぶ[2]。また毎日のようにナショナル・ギャラリーや博物館を訪れたり、劇やオペラを観たり、数多くの詩作と読書に熱中した。ロンドンの煤煙で健康を損ね、1867年にいったん故郷に帰って小説を書き始めた。 1867年(27歳のとき)に最初の作品『貧乏人と淑女』を執筆し、Chapman & Hall
作家活動
1870年、コーンウォールの教会修理に赴き、牧師夫人の妹エマ・ラヴィニア・ギフォード (Emma Lavinia Gifford) と知り合い、1874年彼女と結婚し、ロンドンの郊外ワンズワースに住んだ。翌々年に妻とともにヨーロッパを旅し、帰国後ドーセット北部のスターミンスター・ニュートンに住む。1885年、都会生活への不満と、健康上の理由から田園生活を決意し、ドーチェスター近郊のスティングスフォードにみずから設計した家を建築し、それをマックス・ゲート(英語版)と呼び、そこを永住の地に定めた。エマとは別居した時期もあったが、1912年に彼女が亡くなると、ハーディーは大きな心的外傷を受けた。
1891年に『ダーバヴィル家のテス』を、そして1896年に『日陰者ジュード』を発表するが、これらは当時は酷評される。以後は詩作に専念するようになり、ナポレオン戦争を題材とした叙事詩『覇王(英語版)』を発表した。
晩年と評価妻フロレンス(1915年)
1905年、アバディーン大学から名誉博士号を授与される。1910年に初めてノーベル文学賞にノミネートされ、その後にも11回ノミネートされた[5][6]。1911年にメリット勲章を授与され、また数々の名誉の学位を贈られた。1913年、ケンブリッジ大学から名誉博士号を授与される。1920年、オックスフォード大学から名誉博士号を授与される。1922年、セント・アンドリュー大学から名誉博士号を授与される[7]。
1912年に最初の妻エマを亡くすが、2年後の1914年に39歳年下の秘書フロレンス・エミリー・ダグデイル (Florence Emily Dugdale) と再婚した。しかし前妻が忘れがたく、詩を書いたりして気を紛らわせた。1928年、風邪が原因となり、マックス・ゲートで永眠した。87歳没。ウェストミンスター寺院で国葬にされ、火葬後の灰は後妻とのウェストミンスター大聖堂「詩人のコーナー」の墓に、心臓のみは前妻とのスティングスフォード教会の墓に埋葬された[8]。
現代では自然主義の古典として再評価され、世界中で愛読されており、特にハーディ最後の作品『日陰者ジュード』は古典英文学の定番と言われるほどになっている。『帰郷』『カスターブリッジの市長』『テス』『日陰者ジュード』がハーディの四大小説と言われている[3]。若い頃は敬虔なキリスト教徒で、日曜には家族とともに教会でヴァイオリンを演奏することもあった。しかし、ヴィクトリア朝の風潮に加えて、ダーウィン著の『種の起源』により懐疑的になる。牧歌的な描写に長け、ウェセックス地方(現在のドーチェスター一帯)を物語の舞台とした作品が多く、その作風は宿命論を想起させるものが多い。
動物福祉に強い関心があり、家畜や動物が受ける痛みや苦しみを描写し、登場人物がその苦痛に共感するシーンを取り入れた作品が多い。悲観主義的と批判されることも多かったが、ハーディは自身を改善論者と称したように、作品を通じて読者の「他者の苦しみへの共感」を培うことで社会改善に貢献することを目指していた[9]。
ハーディの死後まもなく、遺言執行者によってハーディの手紙とノートが焼却されたが、12冊のノートが残存し、その1冊では1820年代の新聞記事が残されていて、ハーディがそれらを作品に活用したかの研究に供された[10]。ハーディの死の翌年、夫人によって『The Early Life of Thomas Hardy, 1841?1891』が出版され、当時のノート、手紙、自伝的な覚え書きなどが、長年の口伝えであるかのように編集されていた。
ハーディの業績は、D.H.ローレンス[11]、ジョン・クーパー・ポウイス、ヴァージニア・ウルフら若い作家たちからから賞賛された[12]。ヴァージニア・ウルフはハーディ没時において「トマス・ハーディの死によってイギリス小説界は指導者を失ってしまった」「かくして、ハーディの与えてくれたものは、或る時代の或る場所における生の単なる写し換えではない。それは力強い想像力、深い深い詩的な天才、高尚で仁慈な魂に映じたままの、世界と人間の運命との幻影なのである」(「トマス・ハーディ論」(『一般読者』第2集))と述べている[13]。