トーマス・テルフォード(Thomas Telford)
生誕 (1757-08-09) 1757年8月9日
スコットランド、ダンフリーズシャー、エスクデイル、ウェスターカーク、グレンディニング
死没1834年9月2日(1834-09-02)(77歳没)
イングランド、ロンドン、ウェストミンスター、アビンドン通り24
国籍スコットランド
市民権イギリス
教育ウェスターカーク教区学校
ラナムで石工の修行(1772?79)
独学
配偶者生涯結婚せず
親ジョン・テルフォード(1757年没)
ジャネット・ジャクソン(1794年没)
業績
専門分野土木工学
所属機関エディンバラ王立協会フェロー(1803)
イギリス土木学会設立者及び初代会長(1818)
ロンドン王立協会フェロー(1827)
プロジェクトカレドニアン運河
イェータ運河
エルズミア運河
ポントカサステ水路橋と運河
シュルーズベリー運河
メナイ吊橋
A5(道路)
トーマス・テルフォード、FRS(王立協会フェロー)、FRSE(エディンバラ王立協会フェロー) (英語: Thomas Telford、1757年8月9日 ? 1834年9月2日)はスコットランドの土木技師、建築家、石工であり、道路、橋、運河の建築業績で有名である。シュロップシャーで道路と運河を作るプロジェクトを担当して土木技師として名を上げた後、生まれ故郷のスコットランドで港湾やトンネル、その他の多数のインフラストラクチャーを建設するプロジェクトに携わった。幹線道路やそれをつなぐ橋を非常に多く設計したため、「道路の巨人」と呼ばれるほどの評判をとった。19世紀初頭にあらゆる種類の土木技術を駆使して活動していたため、イギリス土木学会
の初代会長に選ばれ、亡くなるまで14年間その地位にあった。テルフォードは1757年8月9日にスコットランドのグレンディニングで生まれた。グレンディニングはダンフリーズシャー、エスクデイルのウェスターカーク教区にあるエスクデイルミュア・カークから5キロほど西にある高地農業の農場であった。父は羊飼いのジョン・テルフォードで、トーマスが生まれてすぐ亡くなった。トーマスは貧困の中、母ジャネット・ジャクソン(1794年没)に育てられた[1]。
14歳の時、テルフォードは石工の徒弟に入門した。テルフォードの若い頃の作品はスコットランドとイングランドの国境地域、ラナムのエスク川にかかっている橋で今でも目にすることができる。しばらくエディンバラで働いていたが、1782年にロンドンに引っ越し、建築家のロバート・アダムとサー・ウィリアム・チェンバーズに会った後、サマセット・ハウスの建て増し事業に関わった。2年後にポーツマス海軍基地の造船所で仕事を見つけ、ほぼ独学のみで建築プロジェクトのマネジメント、設計、仕様などに関する知識を身につけ、仕事の幅を広げた。
1787年に富裕な貴族のパトロンであるウィリアム・パルトニーの助力でテルフォードはシュロップシャーの公共事業建築検査官になった。土木工学はいまだに未発達な分野であったため、テルフォードは建築家としての地位を確立することからはじめた。テルフォードはシュルーズベリー城をはじめとして、町の刑務所(この計画中にテルフォードは監獄改革運動の主導的な活動家であるジョン・ハワードに会っている)、ブリッジノースの聖メアリー・マグダレン教会、マデリーの聖マイケル教会などを改修した。1788年にシュルーズベリーの聖チャド教会の屋根の水盛りについてアドバイスを求められた際、テルフォードは教会がいつ崩壊するかわからないような差し迫った危険な状態にあると警告した。教会が3日後に崩壊したため、テルフォードの地元での評判は高まったが、建築家としてこの教会の新築を担当することはなかった。
シュロップシャーのカウンティの検査官として、テルフォードは橋にも責任を負っていた。1790年にテルフォードはロンドンからホリーヘッドに向かう道路上、モントフォードでセヴァーン川にかかっている橋を設計した。これはシュロップシャーでテルフォードが作った40あまりの橋のうち最初のものであり、この後はビルドワスやブリッジノースでセヴァーン川を渡るための主要な橋を設計した。ビルドワスの橋はテルフォードが作った最初の鉄橋である。テルフォードはこの橋を作るにあたってエイブラハム・ダービーのアイアンブリッジから影響を受けていたが、アイアンブリッジは機能に照らして非常に過剰設計で、構成部品の多くについて設営が悪いと考えていた。対照的に、テルフォードの鉄橋は10メートルの幅で重量はアイアンブリッジの半分であったが、この橋は現存していない。テルフォードは建築前に材質を徹底的にテストしていたが、これは同時代の土木技師の間では珍しく、画期的であった。
1795年にウスターシャー、ビュードリーの橋が冬の洪水で流され、テルフォードが架橋のための設計責任者になった。同じ冬の洪水でテンベリー・ウェルズの橋も流されていた。ティーム川にかかっている橋はウスターシャーとシュロップシャーの共同責任で維持されており、両カウンティの境界で橋が曲がっていた。テルフォードはシュロップシャーの管轄である橋の北側の修理を担当した。 シュロップシャーで高い評価を得たため、テルフォードは1793年にエルズミア運河の詳細な設計と建築のマネジメントを委任された。エルズミア運河はシュロップシャー北西部のエルズミアの町を通って、レクサムの製鉄所・炭鉱とチェスターをつなぐものであり、既に存在してたチェスター運河とマージー川を活用することになっていた。ポントカサステ水道橋を航行する運河ボート いろいろな構築物の中でも、スランゴスレンの谷でディー川にかかるポントカサステ水路橋はめざましい建築物であり、テルフォードは鋳鉄プレートで作って石細工で固定するトラフからなる新しい工法を用いてこれを作った。ポントカサステ水路橋は1,000フィート (300 m)の長さで谷底から126フィート (38 m)の高度を有しており、45フィート(15m)の幅がある19個のアーチがある。テルフォードは大規模建築物に鋳鉄を用いた最初期の建築家であったため、砂糖と鉛を煮詰めたシーリング材を鉄の接合に用いるなどの新しい技術を開発した。著名な運河技士であったウィリアム・ジェソップがプロジェクトを監督したが、工事の細かい点についてはテルフォードにまかせていた。水路橋はユネスコの世界遺産に指定されている。ロングドン=オン=ターン水路橋 同時期にテルフォードはシュルーズベリー運河の設計と建築に関わった。もともとの担当技師だったジョサイア・クロウスが1795年に亡くなったため、テルフォードがこれを引き継いだ。このプロジェクトでテルフォードが関わった作品としては、鋳鉄を用いたロングドン=オン=ターンの水路橋の設計があげられる。これはポントカサステ水路橋に先立つもので、たったひと月前にベンジャミン・アウトラムがダービー運河に作った英国最初の鋳鉄水路橋よりもずっと大きいものであった。 エルズミア運河は1805年に完成し、テルフォードの土木技師としての名声は高まった。このため、運河建築の責任者としてしなければいけない仕事以外にも、テルフォードは多くの他のプロジェクトについていつも意見を求められるようになった。リヴァプールの給水設備やロンドンの波止場の改修、ロンドン橋の再建(1800年頃)などはこうしたプロジェクトの例である。 最も有名なものとしては、再度ウィリアム・パトニーの意向を受け、1801年にテルフォードはスコットランドのハイランド地方の輸送網を改善するための基本計画を策定した。これは20年以上かかる一大プロジェクトで、カレドニアン運河、グレート・グレン、クリナン運河の部分的な再設計、920マイル (1,480 km)の新道路、クライゲラヒー橋など1,000本を越える新しい橋、アバディーン、ダンティー、ピーターヘッド、ウィック、ポートマホマック、バンフを含む多数の港湾改修、32の新しい教会などからなるものであった。 テルフォードはスコットランドのローランド地方の幹線道路建築も請け負っており、これは184マイル (296 km)の新道路と、カークーブリーのトングランドでディー川を渡るための112フィート(34 m)の石橋から129フィート(39 m)の高さがあるラナークのカートランド・クラッグズ橋(1822年)まで、多数の橋からなるものであった。 テルフォードは1806年にスウェーデン国王グスタフ4世アドルフから、ヨーテボリとストックホルムの間をつなぐ運河建設について相談を受けた。テルフォードの計画が採用され、イェータ運河の建設が1810年にはじまった。テルフォードはこの頃スウェーデンまで旅をし、重要性の高い最初の掘削を監督した。 テルフォードのプロジェクトの多くは大蔵省証券貸付委員会委員という職務のせいで請け負ったものであった。この機関は1817年の貧困者雇用法により設置されたもので、雇用を生みだす公共事業に財政支援を行うことを目的としていた[2]。 晩年にテルフォードはロンドンからホリーヘッドをつなぐワトリング街道
エルズミア運河
「道路の巨人」メナイ吊橋