トーマス・サージェント・ペリー
Thomas Sergeant Perry
ペリーの肖像(妻リラ・キャボット・ペリー画、1889年)
生誕 (1845-01-23) 1845年1月23日
アメリカ合衆国 ロードアイランド州ニューポート
死没1928年5月7日(1928-05-07)(83歳)
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン
国籍 アメリカ合衆国
配偶者リラ・キャボット (m. 1874)
子供3人
親クリストファー・グラント・ペリー
フランシス・サージェント
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トーマス・サージェント・ペリー(Thomas Sergeant Perry、1845年1月23日 - 1928年5月7日)は、アメリカ合衆国の編集者、言語学者、英文学者、文芸評論家、翻訳者、文学史家である。作家ヘンリー・ジェイムズの生涯に渡る友人であり、ハーバード大学の教授だった。 ペリーは1845年1月23日にロードアイランド州ニューポートで生まれた。父クリストファー・グラント・ペリー(Christopher Grant Perry)は、マシュー・ペリー代将の兄オリバー・ハザード・ペリー代将の息子である[1][2]。母フランシス・サージェント(Frances Sergeant)は、ペンシルベニア州最高裁判所判事トーマス・サージェント
若年期
ヘンリー・ジェイムズとは幼い頃からの友人である。南北戦争前には[3]、ニューポートの教会学校に一緒に通っていた[4]。ジェイムズを通じて画家・日本研究者のジョン・ラファージと知り合い、後にペリーの姉のマーガレットはラファージの妻となった[2]。
ハーバード大学で1866年に学士号、1869年に修士号を取得した。1866年から1868年まで、パリとベルリンに留学した[1]。 ハーバード大学で、1868年から1872年までドイツ語のチューターを、1877年から1881年まで英語の専任講師(instructor)を、1881年から1882年まで英文学の講師(lecturer)を務めた。慶應義塾大学の福沢諭吉がハーバード大学に対して英文学の専門家の派遣を要請し、それに応じてペリーが派遣されることになった[5]。ペリーは一家で来日し、1898年から1901年までの3年間、慶應義塾大学の英文学の教授を務めた[1][6]。 エッセイストとしても活動し、様々な作家についてのエッセイが『ノース・アメリカン・レビュー
キャリア
詩人エドウィン・アーリントン・ロビンソン(英語版)は、詩集"The Three Taverns(三軒宿)をペリーとその妻リラに捧げた[8]。 1874年4月9日、ペリーはリラ・キャボット(Lilla Cabot)と結婚した。リラは画家であり、アメリカの印象派における重要人物である[9][10]。2人の間には以下の3人の娘がいた[9][11]。
私生活