トータルテンボス
メンバー大村朋宏
藤田憲右
結成年1997年
事務所吉本興業
活動時期1998年 -
出身NSC東京校3期
出会い小学校時代
現在の活動状況テレビ・ライブツアーなど
芸種漫才、コント
ネタ作成者大村朋宏
現在の代表番組くさデカ
めちゃ2ユルんでるッ!
テンボス×テンボス
トータルテンボスのSUSHI★BOYS
YouTube
チャンネル
トータルテンボスのSUSHI★BOYS
活動期間2017年6月5日 -
ジャンルコメディ
登録者数約50万人
総再生回数約2億2990万回
YouTube Creator Awards
登録者100,000人2018
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002022-09-01-00002022年9月1日時点。
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トータルテンボスは、吉本興業に所属する日本のお笑いコンビ。1997年4月結成、NSC東京校3期出身。M-1グランプリ2007 準優勝、爆笑オンエアバトル第10 - 12代チャンピオン。
メンバー詳細は「大村朋宏」および「藤田憲右」を参照
2人揃って、野球大好き芸人ともいわれている[1]。
大村 朋宏(おおむら ともひろ、 (1975-04-03) 1975年4月3日(49歳) - )
ボケ・ネタ作り担当、立ち位置は向かって右。静岡県御殿場市出身。身長177cm。血液型O型。御殿場市立南中学校、静岡県立沼津東高等学校卒業、明治大学商学部中退。高校時代はハンドボールをしていた。
藤田 憲右(ふじた けんすけ、 (1975-12-30) 1975年12月30日(48歳) - )
ツッコミ担当、立ち位置は向かって左。静岡県御殿場市出身。身長180cm。血液型A型。御殿場市立南中学校、静岡県立小山高等学校卒業、中央学院大学商学部中退。高校時代は野球部のエースとして予選3回戦まで出場し、1回戦・2回戦共に1安打完封を遂げている。現在は草野球チームへ所属。くっきー!(野性爆弾)や小堀裕之(2丁拳銃)らと共に結成したロックバンド『THE SESELAGEES』のボーカルを務めている。
概要
1997年4月コンビ結成。大学時代の大村がロンドンブーツ1号2号の深夜番組を見て芸人を志し、小学生からの同級生であった藤田を誘ったのが結成の引き金となった。
コンビ名の由来は藤田が見た映画『トータル・リコール』と、大村がコンビ名の候補にしていたテーマパーク「ハウステンボス」を合わせたもの。略称は「トータル」あるいは「トーテン」で、テレビや芸人の間では前者を用いられることがほとんど。
現在では漫才を中心に演じているが、デビュー当時はコント専門だった。当時の藤田は大村に誘われてお笑いに入ったため、お笑いについてあまり知らず「ツッコミは関西弁」という固定観念から関西弁でツッコんでいた(他の台詞は全て標準語。また2人は静岡県出身)。しかしコント専門のコンビとしては一切売れず、それどころか2人とも賭け麻雀にハマるなど借金だけが積み重なり芸人としての活動を全くしていない時期もあったという。デビューから3年後、解散・引退を考える(理由は2つあって1つは単純に稼げなかったため、もう1つは藤田が芸人の社会にどっぷり浸かり消費者金融での借金にも抵抗感を抱かない人間と化してしまい大村が誘った側として責任を覚えたため)。だがその時相談に行った吉本興業の社員に説得されて引き留められる。また、その社員からは漫才を勧められて漫才を始めるきっかけになった。漫才をベースにしたコントを行うこともあり、キングオブコントでは準決勝まで進出している。
主にルミネtheよしもとでの活動を行う傍ら、2007年2月まで宗田義久・樅野太紀(元チャイルドマシーン)と共にバンド『Sausage Butterfly Pasta Festa』を組み、実際に音楽活動も行っていた。2010年3月に活動を再開。
M-1グランプリ
『M-1グランプリ』には2001年度より参加し、3回決勝進出を果たしている。以下、「M-1完全読本2001-2010」のインタビューを中心に抜粋。
2003年度は準決勝で決勝進出したフットボールアワーと同じくらいウケた(大村談)が、落とされた。足りないのは知名度と考えて大村は年明けから「今年のM-1はトータルテンボスが行くらしい」と自ら噂をばら撒いた。それが功を奏したのか、2004年度は初めて決勝進出を果たして結果は7位。しかし翌年の2005年度は準決勝進出に終わる。そこで考えたのがツアーだった。後に優勝した笑い飯の全国14箇所を回るツアーに肖り、14箇所を上回るべく47都道府県全てを回る漫才ツアーを敢行。
2006年は決勝進出組に返り咲き、結果は5位。審査員の松本人志(ダウンタウン)からは「トータルテンボスはもっとウケてもよかった。ネタの出来と観客の笑いが正比例していなかった」と高評価された[2]。
ラストイヤーとなった2007年度は年明けに10本のネタを厳選し(ネタ順が何番でも勝てるように用意していた)、それらを全国ツアーで徹底的に練り上げ優勝候補の一角として決勝進出。前半に配された細かいボケを後半に違う角度からさらい直す[注 1]という、緻密に計算し尽くされた「ホテルマン」を披露。会場の重い空気を一気に変え、ラサール石井と中田カウス(中田カウス・ボタン)からはそれぞれ最高評価の「95点」「93点」をつけられ「646点」でトップへ躍り出た[注 2]。しかし直後のキングコングに4点差で抜かれ、藤田は少し嫌な予感がしたという。更に初出場のサンドウィッチマン(敗者復活枠)がキングコングに1点差でトップに付け、計算が狂った。大村はネタ順から会場の空気の流れまで全て思惑通りにいっていたが、サンドウィッチマンが勝ち上がるのは想定外だった。暫定3位[注 3]で初めてにして最後の最終決戦進出となるも、結果はサンドウィッチマンに2票差で2位。松本は「トータルテンボス、キングコングも、もう一笑いあれば優勝の可能性は大いにあった」「(1本目の)ボイラー室みたいなボケをもう一個持ってくれれば良かったのに」[3][注 4]とあと一歩で敗戦したことを示唆した。中田カウスは「実力は3組とも伯仲だったが、一番ネタが練られていた」という理由でトータルテンボスへ投票している[4]。また、この大会は2002年度以降で初めて最終決戦進出の3組全て票を獲得していた。大会終了後の大村は悔しさのあまり涙が止まらなかったという。藤田は「今度は知名度があったから負けたのかもしれないですね」と語り、「策士、策に溺れる」結果になったのを自虐した。なお、伊達みきお(サンドウィッチマン)は後に決勝をDVDで観劇し、「トータルテンボスになら、負けても納得できる」と述べている[5]。
2007年の5月頃、ネタについてコンビで大喧嘩にまで発展した。その際、大村は藤田に対し「分かった、もう頼む、全部任せてくれ、優勝させるから」と説き伏せた。大村によると、「その時期はコンビ仲が最悪でこのままだとお客さんに伝わり、いい漫才を見せれない」と判断していた。そこから藤田も思う所があっても我慢し、ネタも円滑に進むようになった。
M-1放送終了後の大村は、優勝できなかった悔しさや応援してくれた妻のこと、相方の藤田に対する申し訳なさ、もうM-1には出場できないという寂しさなどが一気に爆発し、テレビ朝日のトイレで嗚咽してしまった。一方の藤田は悔しいという気持ちこそあったものの「2位になったから凄くね?」という思いの方が大きかったらしく、大村からは優勝できなかったことについて謝罪されるも「何が?」と返事していた。
2人とも2009年度のM-1グランプリで優勝したパンクブーブーの実力に早くから目を付けており、大村は2007年度の敗者復活戦の要注意コンビにこの年の敗者復活から優勝を成し遂げたサンドウィッチマンと共にパンクブーブーの名も挙げていた。藤田は2008年度にパンクブーブーが準決勝進出に終わった際、「今後決勝進出する機会があれば絶対優勝できる」とコメントしていた(現に翌年の2009年度でパンクブーブーは優勝を果たしている)。
爆笑オンエアバトル
かつて放送されていた『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)には2002年から2010年まで出場し続け、常連組として長きに渡って活躍した。
初挑戦は2002年6月15日放送回で、結果は285KB(9位)によりオフエアだった。ちなみにこの回は漫才ではなく、「手の長い運転手」というコントを披露していた。
初オンエアは2004年2月13日放送回で、初挑戦から約1年8ヵ月ぶりの出場となった。この回で初めて漫才を披露し、389KBでギリギリ5位のオンエアであった[注 5]。
2004年度は初めて連敗を経験する[注 6]など苦汁を嘗めた時期があったものの、2005年に入ってからは一度もオフエアを経験せず15連勝を記録。その後、2005年1月8日放送回に初のトップ通過を果たすなど調子を取り戻し、最終的には年間3勝を達成して初のチャンピオン大会進出となった。しかしながら結果はファイナル10位(494KB)に終わる。
2005年度は同年5月28日放送回に初のオーバー500(529KB・自己最高KB)を記録するなど高得点を連発、無事に2年連続でチャンピオン大会へ進出した。だが結果はまたしてもファイナル10位(526KB)に終わってしまう。
出場初期はコントを披露することもあり(上述にもある通り、初挑戦はコントを披露している)、初めてトップ通過を果たした際もコントを披露していた。またチャンピオン大会では第7回はセミファイナルで[注 7]、第8回に至ってはセミファイナル・ファイナル両日共にコントを披露していた。しかし第8回チャンピオン大会ファイナルを最後に同番組ではコントを封印、以降は漫才のみで挑戦していた。
2006年度は2人の地元・静岡の収録回(2006年7月14日放送回)で今季初勝利を果たすと、その後も安定した得点で勝利を重ね3年連続でチャンピオン大会へ進出。最終的にチャンピオンは逃したものの、ファイナル7位(850KB)と過去の成績よりKB数・順位は比較的上昇した。
2007年度は年間4勝のうち3勝がオーバー500を記録[注 8]するなど高得点を連発し、その勢いのまま4年連続でチャンピオン大会に進出。最終的にファイナルで1026KB[注 9][注 10]という高得点を叩き出し、10代目チャンピオンに輝いた。
このチャンピオン大会のため2人は全国ツアーを開催、更にはツアーに来た観客に対してアンケートを取るなど徹底したリサーチをかけていたという。その結果、抜群に人気があったのがファイナルで披露したネタ(「プロポーズの言葉」)であったと藤田は語っている。このリサーチを行った理由として2人は「『M-1』はプロがプロを審査する。『オンバト』は一般の方々が審査する。『M-1』でウケたネタが、必ずしも全国的に面白いと思われているとは限らない(藤田)」「データに忠実にいこうと考えていた(大村)」と述べている[6]。更に計量直後のインタビューでは、大村はM-1で敗退した自分たちの状況を重ねて「勝因はこの番組に敗者復活という制度がなかったということ」と語っていた。
第11回チャンピオン大会ファイナルにはシードで出場。その結果1034KBを叩き出してファイナル最高KBを更新すると同時に、タカアンドトシ以来となる番組史上3組目の2連覇を達成。チャンピオン防衛を果たした。
第12回チャンピオン大会ファイナルに再びシードで出場[注 11]。ファイナルステージではエハラマサヒロ・ハイキングウォーキングとの三つ巴となったが、最終的には1018KBを獲得して2位のハイキングウォーキング(702KB)を圧倒的に突き放し、番組史上初となる3連覇を成し遂げた。また、3年連続でファイナルにてオーバー1000を記録したのもトータルテンボスが唯一である。
第12回チャンピオン大会ファイナルを以って『爆笑オンエアバトル』は終了。2010年4月から後継番組の「オンバト+」が新たにスタートしたため、トータルテンボスは『爆笑オンエアバトル』で最後のチャンピオン経験者となった。そして第11回チャンピオン大会終了後のインタビューでは、大村が(冗談交じりではあるが)「(チャンピオンのまま)オンバト終わらないかなぁ(笑)」、藤田が「前人未到の3連覇を狙いたい」と語っており皮肉にも両者の野望が同時に叶った[7]。その後、2011年7月16日放送の「オンバト+ 第1回大会直前SP」では歴代チャンピオンとして番組のナビゲーションを担当した。
番組のゴールドバトラーとプラチナバトラーの両方に認定されている数少ないコンビ[注 12]。
M-1の時同様、同時期に番組で共演していたパンクブーブーを高く評価しており2人とも第11回チャンピオン大会ファイナル終了後のインタビューにて「パンクブーブーにだったら負けても仕方ない」と語っていた[8]。また、第12回チャンピオン大会ファイナル終了後に行った番組HPでのインタビューでは「本当はパンクブーブーと戦って倒したかった」とも語っていた。
略歴
1997年4月、コンビ結成。
2004年10月、NHK新人演芸大賞決勝進出。
2004年12月、M-1グランプリ2004決勝7位。
2005年3月、第7回爆笑オンエアバトルチャンピオン大会出場。ファイナル10位。
2006年3月、第8回爆笑オンエアバトルチャンピオン大会出場。