トーキング・ヘッズ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、アメリカ合衆国のロックバンドについて説明しています。SCRIPTのシングルについては「トーキングヘッズ (SCRIPTの曲)」をご覧ください。

トーキング・ヘッズ
Talking Heads
トーキング・ヘッズ(1970年代後半)
基本情報
出身地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州 ニューヨーク
ジャンルニュー・ウェイヴポストパンクファンクアフロビートダンスロック
活動期間1974年 - 1991年
2002年
レーベルサイアー・レコード
EMI
共同作業者ブライアン・イーノ
トム・トム・クラブ

旧メンバーデヴィッド・バーンボーカルギター
クリス・フランツ(英語版) (ドラムスパーカッション
ティナ・ウェイマスベース
ジェリー・ハリスン(英語版)(キーボード、ギター)

トーキング・ヘッズ (Talking Heads) は、1974年に結成、1991年に解散したアメリカ合衆国ロックバンド

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト(英語版)」において第100位。メンバーのうち、ティナ・ウェイマスとクリス・フランツは1981年にトム・トム・クラブを結成し、トーキング・ヘッズと並行して活動を行った。
概要

トーキング・ヘッズは、ニューヨーク・パンクの拠点となったライブハウス「CBGB」出身のバンドで、1970年代半ばから1980年代後半にかけて活動した。メンバーは名門美術大学、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの出身で「インテリバンド」と呼ばれることが多く、初期はパンク・バンドとされていたが、ボーカルのデヴィッド・バーンがアフロ・リズムに傾倒し、それを大胆に楽曲に取り入れるようになると、ポスト・パンクとされるようになった。

バンドはデヴィッド・バーンボーカルギター)、クリス・フランツ(英語版)(ドラム、バック・ボーカル)、ティナ・ウェイマスベース、バック・ボーカル)、ジェリー・ハリスン(英語版)(キーボード、ギター、バック・ボーカル)の4人編成だが、1980年のアルバム『リメイン・イン・ライト』前後から、サポート・メンバーを大々的に起用し、ビッグ・バンド編成でライブを行うようになった。1981年からはライブの最中にバンド内バンド「トム・トム・クラブ」のコーナーを組み込むようになった。

バーンの都会的な神経症を連想させるボーカルやライブ・パフォーマンス(痙攣パフォーマンスとブカブカなシャツ)が特徴的で、歌詞は「家」や「心地良い(悪い)空間」をテーマにしたものが多い。また、楽曲製作では『リメイン・イン・ライト』製作時からインプロヴィゼーションの要素を取り入れている。ジョナサン・デミによるライブの記録映画『ストップ・メイキング・センス(英語版)』をはじめ、「ワンス・イン・ア・ライフタイム」や「ロード・トゥ・ノーウェアー」のミュージック・ビデオなど、映像作品の評価も高い。
歴史
黎明期(1974年 - 1977年)

1974年ロードアイランド・スクール・オブ・デザインに在学していたデヴィッド・バーンが、「ファビュラス・モーテルズ」(パフォーマンスアート寸劇ロックの融合を試みていた学生バンドであり、クリス・フランツとティナ・ウェイマスが参加していた)に出入りするようになった。その後、バーンはフランツと「ジ・アーティスティック (The Artistic)」を結成し、次いでウェイマスが加入すると、バンド名は「トーキング・ヘッズ」[注 1]と改められた。

フランツとウェイマスの卒業後、バーンは「ファビュラス・モーテルズ」のオーディションを受けた。不合格通知を受けると、バーンは単身ニューヨークに移り、友人の家に居候をしながら無為の日々を過ごす。やがて、フランツとウェイマスがニューヨークに移って来ると、トーキング・ヘッズは本格的にバンド活動を開始した。バンドとして初めてのライブは、1975年6月に行なわれたCBGBサマーフェスティバルで、2度めのライブの直後にはヴィレッジ・ヴォイス誌の表紙に抜擢されている。その後数年間、ラモーンズブロンディらとともにCBGBの常連となった。

バンド結成から長い間スリー・ピース・バンドとして活動していたが、1977年にジェリー・ハリスン[注 2]が加入して4人編成となると、まもなくして、バンドはサイア・レコーズと契約。同年9月、トニー・ボンジオヴィ(英語版)(ジョン・ボン・ジョヴィの又従兄弟)のプロデュースによるファースト・アルバム『サイコ・キラー'77』を発表。同アルバムは商業的成功こそしなかったが、音楽業界内で高い評価を得て、その当時萌芽期だったニュー・ウェイヴニューヨーク・パンクのバンドのひとつとして受け入れられた。
ブライアン・イーノ時代(1978年 - 1980年)1978年

1978年7月、セカンド・アルバム『モア・ソングス』を発表。同アルバムはブライアン・イーノをプロデューサーに迎え、バハマコンパス・ポイント・スタジオでレコーディングを行った。シングルカットされた「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー(英語版)」(アル・グリーンのカバー曲)が全米26位を記録。バンドはようやく一般的な認知度を得た。「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」はオーストラリアでもヒットし、バンドはニュー・アルバムの製作の合間にオーストラリア・ツアーに出ている。

1979年8月、アルバム『フィア・オブ・ミュージック』を発表。再びイーノと組んだ。「ライフ」をシングルカット。フーゴ・バルの詩を改作した「イ・ズィンブラ」では、ロバート・フリップをサポートに迎えて、アフロビート、アフリカン・ファンクに挑戦している。

1980年10月、アルバム『リメイン・イン・ライト』を発表。三度イーノと組み、「イ・ズィンブラ」の音楽性をさらに進化させたポリリズムとアフロビート[1]に挑戦した。『リメイン・イン・ライト』は再びバハマのコンパス・ポイント・スタジオ(一部はアメリカのスタジオ)で録音された。エイドリアン・ブリュージョン・ハッセルなどをサポートに迎えたこの作品で、バンドはその評価を確固たるものにした。また、『リメイン・イン・ライト』発表直前からサポート・ミュージシャンを含めたビッグ・バンド編成でライブを回るようになった。
トム・トム・クラブ結成、メンバーのソロ活動(1981年 - 1984年)

1981年、ティナ・ウェイマスとクリス・フランツはバンド内のサイド・プロジェクトしてトム・トム・クラブを結成。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef