トヴェリ
Тверь
市章
位置
ロシア内のトヴェリ州の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯56度52分 東経35度55分 / 北緯56.867度 東経35.917度 / 56.867; 35.917
トヴェリ(ロシア語: Тверь; IPA: [tv?er?])は、ロシア連邦のトヴェリ州の州都。人口は41万6219人(2021年)。ロシア有数の古い歴史を持つ都市。モスクワの北西170km、モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道、および高速道路M10が通る。ヴォルガ川とトヴェルツァ川との合流点にある。1931年から1990年までは、革命家ミハイル・カリーニンに因んでカリーニン(Калинин, Kalinin)と呼ばれていた。
産業トヴェリ市街
ロシアの重要な工業都市のひとつで、鉄道列車製造、木材加工、繊維工業、化学工業などが盛ん。ロシア最大級の空軍輸送機基地・ミガロヴォ(Migalovo)が近郊にある。
2003年9月に、ウラジーミル・プーチン大統領とドイツのゲアハルト・シュレーダー首相とのあいだで、バイオマス発電についての共同開発をトヴェリを拠点として行なうことが約束された。
トヴェリは、トヴェリ国立大学をはじめ技術大学、医科大学、軍事大学、農業大学、様々な単科大学などの高等教育・研究機関が置かれ、モスクワの大学や研究所も支部をトヴェリに置いているところがある。
歴史生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー聖堂)
トヴェリの町は12世紀に興り、トヴェリの名の文献における初出は1164年に遡る。もとノヴゴロドの商人の小さな交易拠点であったトヴェリは1209年にウラジーミルの大公の手に渡った。1246年に英雄アレクサンドル・ネフスキーがトヴェリを弟のヤロスラフ・ヤロスラヴィチに与え、1247年よりトヴェリ公国の首都となり代々ヤロスラフの子孫が公の地位を継いだ。トヴェリ公国の公のうち4人は侵入してきたモンゴル人のジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)との戦いで戦死し、後にロシア正教会により列聖されている。
深い森と沼地だったトヴェリでは開墾が進み、トヴェリ公国はルーシ諸国の中でも有数の豊かさと人口を誇る強国となった。タタール人に襲撃されにくい西北に位置したため、荒廃の極にあったルーシ南部からは人口の流入も絶えなかった(スラヴ民族の北東ルーシへの移動)。13世紀の末にはモスクワに対抗してルーシの覇権を争う力をつけてきた。トヴェリもモスクワもロシアでは若い都市であり記録も少ない。
トヴェリ大公ミハイル・ヤロスラヴィチ(トヴェリのミハイル)。ジョチ・ウルスに殺された後、列聖され聖ミハイルとなった聖ミハイル聖堂
トヴェリ公国の祖であるヤロスラフ・ヤロスラヴィチの息子、ミハイル・ヤロスラヴィチ(トヴェリのミハイル)は1285年にトヴェリ公となりリトアニアやスウェーデンと戦い、1305年にはウラジーミル大公として戴冠し「全ルーシの大公」を自称した最初のトヴェリ大公となった。彼は中世ロシアでも最も敬愛を集めた君主であったが、ウズベク・ハン率いるジョチ・ウルスおよびその後ろ盾を受けたモスクワ公国と戦ったため、1318年にウズベク・ハンの首都サライで殺された。息子ドミトリー・ミハイロヴィチが跡を継ぎ、強国であったリトアニア大公国と組んでトヴェリ大公の力を高めた。トヴェリのモスク1910年のトヴェリとヴォルガ川の貯木場
ドミトリーはモスクワ大公ユーリー3世がロシアからジョチ・ウルスへの貢税2,000グリヴナを横領していることを知り、1322年にサライへ向かい、ウズベク・ハンにこの事を報告、ただちにユーリーは裁判のため召喚された。対して、ドミトリーは弟のアレクサンドル・ミハイロヴィチを用いてユーリーのサライへの上京を妨害、ユーリーのサライ到着を2年遅らせてハンのユーリーへの心象を悪化させることに成功する。これによりハンの後ろ盾を得たと確信したドミトリーは1324年11月にハンの眼前で直接ユーリーを殺害するという暴挙に走った。一方で、ドミトリーの力の伸長にいらだっていたユーリーの弟のイヴァン・カリタ公(イヴァン1世)の宮廷工作の結果もあり、この越権行為の責任を問われたドミトリーは1326年に27歳で処刑された。翌1327年、トヴェリでは代官としてウズベク・ハンが派遣した息子チョルの圧政に耐えかね、生神女就寝祭(8月15日)の日にタタールの圧制に対する民衆暴動「トヴェリ蜂起」が発生、チョルは本陣としていたトヴェリ公邸の火災によって焼死する。ジョチ・ウルスからのルーシ全域への報復を恐れた新モスクワ大公イヴァン1世はウズベク・ハンと大軍を率いてトヴェリの暴動を弾圧し、市民の多くを殺害・奴隷化・追放。この暴動に加担していた新トヴェリ大公アレクサンドルもプスコフへ逃亡した。この虐殺はトヴェリ大公国に対する致命傷となった。アレクサンドルはリトアニアの後ろ盾でイヴァン1世に再び対抗、プスコフ公位を得るなどしながら各地を転戦するものの、最終的には計略にかかりウズベク・ハンに処刑された。[2]
ミハイル・アレクサンドロヴィチの治めた14世紀後半およびイヴァン・ミハイロヴィチが治めた15世紀前半、トヴェリ大公国は大公の地位を巡る争いでさらに弱体化した。カシン分領とホルム分領は大公家の分家であり、大公家とも激しく争った。この争いに対しモスクワ大公国が分領を支援して介入し、仲介にもあたった。
モスクワ大公ヴァシーリー2世の治世前半の1420年代から1450年代、モスクワ大公国では大公位をめぐる内戦が起き、トヴェリ大公国は再度重要な勢力として登場し、リトアニア大公国、ノヴゴロド公国、東ローマ帝国、ジョチ・ウルスなどと連合した。この時期、トヴェリ大公ボリス・アレクサンドロヴィチはアファナシイ・ニキチン(アタナシオス・ニキチン、Afanasiy Nikitin)を金やダイヤの探索のためインドに向かわせている。