トンプソン_(バンド)
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トンプソン(Thompson)

基本情報
出身地 クロアチア
ジャンルロック
活動期間1991年-
レーベルクロアチア・レコーズ
公式サイト ⇒www.thompson.hr

メンバーMarko Perkovi?
Tiho Orli?
Damir Lipo?ek Kex
Fedor Boi?
Tomislav Mandari?
Damir ?omen

トンプソン(クロアチア語:Thompson)はクロアチアロックバンド。その中心人物であり、リード・ヴォーカルソングライターであるM. P. トンプソン(M. P. Thompson)ことマルコ・ペルコヴィッチ(Marko Perkovi?)のバンドとして認識されている。あるいは、トンプソンという名はマルコ・ペルコヴィッチ個人のことを示すことも少なくない。他のバンド・メンバーにはベースギタリストでサブ・ヴォーカルのティホ・オルリッチ(Tiho Orli?)がいるものの、それ以外のメンバーたちはあまり目立つことはない。トンプソンという名称は、マルコ・ペルコヴィッチの愛称であったトンプソン・サブマシンガンに由来している。マルコ・ペルコヴィッチはナイトウィッシュアイアン・メイデンAC/DCなどの個人的なファンであると発言している[1]

トンプソンは毎年、「勝利と祖国への感謝の日」(en、クロアチア紛争において、アンテ・ゴトヴィナが率いた嵐作戦によって、クライナ・セルビア人共和国がクロアチア軍に制圧された日。8月5日)に、マルコ・ペルコヴィッチの出身地であるチャヴォグラヴェでコンサートを行っている。2006年には、マルコ・ペルコヴィッチはマテ・ブリッチ(Mate Buli?)、ティホ・オルリッチ(Tiho Orli?)、ドラジェン・ゼチッチ(Dra?en Ze?i?)、イヴァン・ミクリッチ(Ivan Mikuli?)、バルニ(Baruni)とともに6万人の観客の前に立った[2]2007年には、ドラジェン・ゼリッチ、マテ・ブリッチとラッパーのショーティ(Shorty)とともに5万人の観客の前に立った[3]。トンプソンは、シト・チョリッチ(?ito ?ori?)、ミロスラヴ・シュコロ(Miroslav ?koro)とともにクロアチア・ワールド・ゲーム(Croatian World Games)の公式曲を歌った[4]。トンプソンはまたクロアチア権利党の公式曲を製作した[5]。トンプソンの楽曲「Lijepa Li Si」はミロスラヴ・シュコロ、マテ・ブリッチ、ジュリアーノ(Giulliano)、ムラデン・グルドヴィッチ(Mladen Grdovi?)、アレン・ヴィタソヴィッチ(Alen Vitasovi?)との共演によって作られた。その他の共演曲では、「Ljuta guja」でヤスミン・スタヴロス(Jasmin Stavros)、「Reci brate moj」でミロスラヴ・シュコロと共演している[6][7]

オランダ政府はファシズムの宣伝の禁止を理由に、トンプソンの楽曲の歌詞がファシズム的であるとしてオランダでの活動を禁止している[8]。しかし、マルコ・ペルコヴィッチはボロボ・ナセリェ(Borovo Naselje、クロアチア紛争の勃発の地)でのBilo jednom u Hrvatskoj(en)ツアー・コンサートを前にインタビューに応え、「栄光あるクロアチア軍の勲章を身につけろ。若者たちが歴史の中に引きこもり、プロパガンダへと落ちていってしまうことは悲しいことだ。」と述べた[9]
歴史

1991年クロアチア紛争の初期のころ、マルコ・ペルコヴィッチは「Bojna ?avoglave」(チャヴォグラヴェ大隊)で初めて脚光を浴びることになった。ペルコヴィッチは「トンプソン」の名義でこの曲を披露した。曲は「Za dom - Spremni!」という言葉から始まり、これは第二次世界大戦のときのウスタシャのスローガンであった(ジークハイルも参照)。ここから、この曲はもっぱら、セルビア人武装勢力からチャヴォグラヴェを防衛するクロアチア陸軍への呼びかけとなっている。この曲はクロアチア軍の士気を高めたとみられ、また同時に大変な人気を呼んだ。この曲はクロアチアの戦争音楽のコンピレーション「Rock za Hrvatsku」(クロアチアのためのロック)に登場した。

1992年、トンプソンは初のアルバムである『Moli mala』を発表した。ペルコヴィッチはこのときクロアチア軍を離れたものの、1995年には嵐作戦に参加するために短期の間、軍役に戻っている[10]。その後、1990年代の間、時がたつにつれてペルコヴィッチはキャリア初期の人気を失い、低迷を続けた。彼は「Zmija me za srce ugrizla」(ヘビがオレのハートを噛んだ)、「Grkinjo, znaj, svemu je kraj 」(ギリシャ女よ、我々は完遂したと知れ)など、いくらかの小規模なヒットはあったものの、1998年のヒット「Prijatelji」程度の人気を繰り返すにとどまった[11]

2000年のクロアチア議会選挙によって、左派政権(クロアチア社会民主党と、クロアチア独立を牽引した指導者のイヴィツァ・ラチャンが率いる)が誕生すると、クロアチアの民族主義者の強い怒りを買い、トンプソンは再び人気を集めるようになった。マルコ・ペルコヴィッチはコンサートのなかで、当時の首相であったイヴィツァ・ラチャンならびに当時の大統領であったスティペ・メシッチを侮辱した[11]

多くのトンプソンの楽曲(「Bojna ?avoglave」、「Lijepa Li Si」、「Vjetre s Dinare」など)がクロアチアで大ヒットとなり、サッカーの試合やそのほかの大イベントの場で流されるようになった。トンプソンはクロアチアの音楽フェスティバルMelodije Mostaraで2001年に、Croatian Radio Festivalで2006年に優勝したのをはじめ、クロアチアの「勝利と祖国への感謝の日」には毎年コンサートを開いている。

トンプソンは、多くのセルビア人やユダヤ人などがヤセノヴァツ強制収容所(en)で殺害されたファシズム時代のクロアチア(クロアチア独立国を参照)を示唆した曲「Jasenovac i Gradi?ka Stara」を歌ったと報じられている。この曲は今日のクロアチアにおける強烈な反セルビア主義、そして狂信的なクロアチア愛国主義を代表した曲と見られている。
E, Moj Narode ツアー

2002年に『E, Moj Narode』をリリースして以降、トンプソンはアルバムの販促のためのツアーを行った。ツアーの絶頂となったのはスプリトのポリュド競技場(en)で行われた「壮大な」[12] ものであった。コンサートには4万人の観衆が集まった。「Lijepa li si」を披露するときには、ミロスラヴ・シュコロ、アラン・ヴィタソヴィッチ、マテ・ブリッチ、ジュリアーノ、ムラデン・グルドヴィッチが共にステージに上がった。コンサートではペルコヴィッチは再び、彼の曲が3つの愛(神、祖国、そして家族)を標榜していることを繰り返した[12]

コンサートは同時に、多くの論争を巻き起こした。客席の2つは旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追され、当時裁判中だったミルコ・ノラツ(Mirko Norac)、および当時逃亡中であったアンテ・ゴトヴィナのために用意されていた。コンサートの冒頭では、ペルコヴィッチがステージに上がるまでの間、観客は第二次世界大戦当時のクロアチアのファシストであるウスタシャの曲「Evo zore, evo dana」(en)を歌った[11][12]

2003年には、トンプソンはベスト盤『Sve najbolje』を発表。2004年にはバンドのヴォーカル兼ベースのティホ・オルリッチがソロ・アルバム『Tiho』を発表した。このアルバムにはトンプソンの曲を2曲収録し、またマルコ・ペルコヴィッチとも共演している。

このツアーは2005年にも散発的に行われた。国際的には、シドニーのシドニー・エンターテイメント・センター(Entertainment Centre)、メルボルンのヴォーダフォン・アリーナ(Vodafone Arena)で5月に行われた[13]。ツアーの終わりには、アルバムの売上げは6万枚を超え、クロアチアでゴールド・レコードとなった[14]

2006年の6月にマルコ・ペルコヴィッチは、難病を抱える子どもたちと家族を支えるためにマクシミル(Maksimir)で行われた有名人によるサッカーの試合に加わった[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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