トロイ
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その他のイリオスについては「イリオス (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「トロイ」はこの項目へ転送されています。その他のトロイについては「トロイ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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出典検索?: "イリオス" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年6月)
イリオス(トロイ)のものとされる遺跡。城郭都市紀元前12世紀

イリオス(古代ギリシア語イオニア方言: ?λιο?, ?lios イーリオス)は、ギリシア神話に登場する都市。イリオン(イオニア方言: ?λιον, ?liov イーリオン)、トロイア(アッティカ方言: Τρο?α, Troia トロイア、イオニア方言: Τρο?η, Troi? トロイエー、ドーリス方言: Τρω?α, Tr?ia トローイア)、トロイ(英語: Troy)、トロイアー(古典ラテン語: Troja トロイヤ)などとも呼ばれる。現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南(同海峡の東側、アジア側、トルコ語ではトゥルヴァ)にあったとされる。遺跡の入り口には、有名な「トロイの木馬」の複製が建てられている。

一般に、ハインリヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡がイリオスに比定されている。神話ではかなりの規模を持った都市国家で、それが事実であった事を示唆する遺構も幾つかは確認されているものの、現在は城塞以外の遺構は殆ど残っていない。ギリシア神話においては、アガメムノーンを頭とするアカイア軍に滅ぼされたとされ、そのあらましはホメロスの『イーリアス』をはじめとする叙事詩環に描かれている。

トロイの古代遺跡については、イリオス遺跡を参照のこと。
伝説上のイリオス遺跡から発見されたプリアモスの財宝テトラドラクマアテーナー(紀元前165-150)
イリオスの建設

かつてイリオスのある地域は、スカマンドロス河とニュンペーのイダイアの子であるテウクロス(英語版)(テラモーンの子テウクロスとは別)が王として治めており、テウクロイと呼ばれていた。そこへアトラースの娘エーレクトラーゼウスが生ませた子であるダルダノスサモトラケ島からやってきた。ダルダノスはテウクロスの客となり、彼の娘バティエイアと領地の一部をもらった。彼はそこにダルダノスという都市を築き、テウクロス王の死後、テウクロイの一帯はダルダニア(英語版)と呼ばれるようになった。

ダルダノスの後はエリクトニオスが相続した。エリクトニオスの後はトロースが継いだ。トロースは、自分の名にちなんでダルダニアの地をトロイアと呼ぶことにした。

トロースはスカマンドロス河の娘カリロエーと結婚し、クレオパトラープトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世とは別人)、イーロスアッサラコスガニュメーデースをもうけた。ガニュメーデースが気に入ったゼウスは、鷲に変身してガニュメーデースをさらい、オリュンポスの給仕係とした。そして、その代償に馬を与えた。なお、アッサラコスの子がカピュスで、カピュスの子がアンキーセース。アンキセスの子がローマの元となった都市を築いた英雄アイネイアースである。

トロースの子イーロスはプリュギアで、その地の王が主催した競技会の相撲の部に優勝。賞品として50人の少年と50人の少女を得た。また王は彼に斑の牛をあたえ、「その牛が横になったところに都市を築けという神託が下ったから、その通りにしなさい」といった。イーロスが牛の後についていくと、牛はアテという丘で横になった。そこでイーロスはそこに都市を築き、イリオスと名づけた。イーロスはアドラーストス(テーバイ攻めの七将の一人のアドラーストスとは別人)の娘エウリュディケと結婚し、ラーオメドーンをもうけた。イーロスの後はラーオメドーンが継いだ。ラーオメドーンの子供には、娘のヘーシオネー、息子ティートーノス、ポダルケースなどが生まれたという。
アポロンとポセイドンによる城壁の建築

あるときアポローンポセイドーンはゼウスに対する反乱をくわだてた。このためゼウスの怒りを買い、人間の姿に身をやつし、イリオス王ラーオメドーンのためにイリオスの城壁を築くという罰を受けた(一説によると、城壁を築いたのはポセイドンだけで、アポローンは羊飼いの役目をしていたという)。城壁完成の後にアポローンとポセイドーンが報酬を貰おうとすると、ラーオメドーンはそれを拒絶した。アポローンとポセイドーンは怒り、アポローンは疫病で、ポセイドーンは海の怪物でイリオスを悩ませた。

その後、怪物にラーオメドーンの娘ヘーシオネーをささげれば、災いから逃れることができるという神託が下った。そこで、海から来る怪物に見えるように、海岸近くの岩にヘーシオネーを縛り付けた。それを見たヘーラクレースは、ガニュメーデースの代償にゼウスが与えた馬をくれるなら、怪物を倒してヘーシオネーを救おうと申し出た。ラーオメドーンが請合ったので、ヘーラクレースは怪物を倒してヘーシオネーを救った。ヘーラクレースが報酬の馬を貰おうとすると、ラーオメドーンは拒絶した。ヘーラクレースは、いずれイリオスを攻め落としに来るぞ、と捨て台詞を残して去っていった。
ヘーラクレースによるイリオス攻め

ヘーラクレースは参加者を募ってイリオス攻めを行った。18艘の船による軍勢の中にはペーレウスアキレウスの父)やテラモーン大アイアーステウクロスの父)もいた。軍勢は船をおりてイリオスを目指した。イリオス王ラーオメドーンはヘーラクレースらの留守に船を襲ったが、逆にヘーラクレースたちに包囲され、捕虜となった。

ヘーラクレースたちはイリオスを包囲し、テラモーンがイリオスへの一番乗りを果たした。ヘーラクレースは自分よりも優れた者の存在が許せなかったので、テラモーンを殺そうとした。テラモーンは機転をきかせて石を集めるふりをした。不思議に思ったヘーラクレースがテラモーンに尋ねると、テラモーンは勝利者ヘーラクレースにささげる祭壇を築いているのだ、といった。ヘーラクレースは喜び、ラーオメドーンの娘ヘーシオネーを彼に与えた。

戦いの後、ヘーラクレースはヘーシオネーに捕虜のうちから一人だけ連れて行くことを許した。ヘーシオネーはラーオメドーンの息子ポダルケースを選んだ。ヘーラクレースがポダルケースの購いを求めると、ヘーシオネーは代償としてベールを差し出した。このことから、ポダルケースはプリアモス(ギリシャ語の「買う」はプリアマイ)と呼ばれることとなった。この時ポダルケース以外のラーオメドーンの息子はすべて殺された。
トロイア戦争イーリオスの陥落詳細は「トロイア戦争」を参照

イリオスは、プリアモス王の時にギリシア勢に攻め込まれ、滅亡することとなった。

この戦争の発端はゼウスの思慮によるもので、人口調節のためとも神の名声を高めるためとも伝えられる。プリアモス王の后ヘカベーは、息子パリス(アレクサンドロス)を生むとき「自分が燃える木を生み、それが燃え広がってイリオスが焼け落ちる」という夢を見た。この夢の通り、パリスはイリオスにとって災厄の種となった。パリスは、ヘーラーアテーナーアプロディーテーの三女神の美の競合、いわゆるパリスの審判によりアプロディーテーからスパルタメネラーオスの妻ヘレネーを奪って妻とすることを約された。彼はスパルタからヘレネーを奪ったため、メネラーオスは直ちにトロイアにヘレネーを帰すよう求めた。しかし交渉は決裂、メネラーオスは兄アガメムノーンとともにトロイア攻略を画策した。

アガメムノーンを総大将としたアカイア軍(ギリシア勢)はイリオスに上陸、プリアモス王の王子ヘクトールを事実上の総大将としたイリオス軍と衝突した。多大な犠牲を出しながら戦争は10年間続き、アカイア軍の間には次第に厭戦気分が蔓延しはじめた。しかし、アカイア軍の将オデュッセウスは一計を案じ(一説には女神アテーナーが考えて)、エペイオスに木馬を造らせた。この、トロイアの木馬の詭計によってイリオスは一夜のうちに陥落した。陥落したイリオスから逃げ出すことができたのは、アイネイアースなど少数の者たちだけだった。
イリオス遺跡

トロイの考古遺跡
トルコ

トロイの考古遺跡
英名Archaeological Site of Troy
仏名Site archeologique de Troie
登録区分文化遺産
登録基準(2),(3),(6)
登録年1998年
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

使用方法表示

シュリーマンによる発掘

ハインリヒ・シュリーマンによって発掘が行われるまで、イリアスは神話上の架空都市にすぎないというのが一般の通念であった。

このような常識に対し、シュリーマンは自著『古代への情熱』で、幼いころにイリアスの子供向けの物語を読み、イリアスは実際に起きた出来事をもとにした物語だと考えて発掘を決意し、資金を集めるために商人になったと述べている。

1868年、シュリーマンはトロイアのあった場所としてダーダネルス海峡西端のチャナッカレ近郊にあるヒッサリクの丘(en)に見当をつけた。アキレウスヘクトールを追い回すことができるような場所、近くにイリアスに書かれた川(スカマンドロス河)があるような場所が他にないというのが彼の説明である。

1870年、シュリーマンは、私財を投じてトロイアの発掘を開始。この発掘には既に功績を挙げたオリンピア発掘隊もかかわっている。シュリーマンの狙いは正しく、曲輪に囲まれた遺跡を発掘した。ヒッサリクの丘の遺構は複数の層から成っており、シュリーマンは火災の跡があった第II層をトロイアだとした。しかし、後の研究の結果、この層はトロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものであった。

シュリーマンの発掘が学会で認められるには時間がかかった。当時の常識に反している上に、シュリーマンがまったくの素人だったからである。確かにシュリーマンの間違った推定と発掘により、遺跡の考古学的価値は大きく傷ついていた。しかし、当時は現代的な意味での考古学は未整備な状況であった。

1882年からドイツの考古学者ウィルヘルム・デルプフェルトが発掘に参加。

8年後の1890年、トロイ第7a市、メガロン(ギリシャ建築の宮殿)跡を発掘、第7層がホメロスのトロイと判定した。

1896年2月26日、シュリーマン死去、デルプフェルトは仕事を続ける。

1893年?94年、デルプフェルトは第7市の要塞を発掘、ホメーロス『イーリアス』のトロイを確証した。

イリオス遺跡の構成イリオス遺跡からの眺めTroy IXでオデオン、紀元前124年
第I層-第V層

現在までの調査によると、イリオスの遺跡は9層から成り、シュリーマンが『イーリアス』当時のトロイアのものだとした第II層Gは、紀元前2500年から紀元前2200年のものだということがわかった。第I層、すなわち最初の集落は紀元前3000年頃に始まっており、初期青銅器時代に分類される。第II層は、エーゲ海交易によって栄えたと考えられており、トロイア文化ともいうべき独自の文化を持っていた。城壁は切石の下部構造を持ち、入り口は城壁を跨ぐ塔によって防衛されている。しかし、その後の第III層から第V層は繰り返し破壊されており、発展的状況は認められない。
第VI層

紀元前1800年から紀元前1300年に至る第VI層において、イリオスは再び活発に活動を始めている。遺跡の中心部はシュリーマンの発掘によって大きく削られてしまったため、後の時代の遺構はほとんど何も残っていないが、第二層を取り囲むようにして増築された第六層時代の拡張域は比較的多く残存している。

第六層はイリオスが最も繁栄した時代と考えられているが、拡張された部分を含めてもその城域は直径200m程度で都市と言うには矮小なため、多くの研究者は長い間、実際のイリオスは町というよりもむしろ交易や軍事の拠点と言うべき地であったと見なしてきた。しかし、80年代以降に最新の機器を用いた探査では丘から数百メートル南に離れた地点で第Y層の時代に作られたと思われる壕や門、柵などを含む遺構が確認され、城壁のすぐ外側でも密集した家屋の跡が発掘されたため、この場所がそれまで考えられていたよりも遥かに広大な居住地であった可能性が高まった。この事を踏まえると都市の規模は丘の周辺の約30ヘクタール(直径600メートル程度)、人口はおよそ1万人程度というそれなりの大きさであった事が窺える。したがって、現在ではこの第Y層から第Z層までをホメロスが描いた時代に比定する説が有力である。

この時期に城塞の規模が拡張され、更に丘の外の平野部にまで居住地が広がった事で、後期青銅器時代の主要な都市の一つとして栄えたと考えられている。城外の遺構が少ない事に対する説明としては人家等の重要でない施設は朽ちやすい木造であった可能性が指摘されている(壕や門に関しては防衛設備ではなく放牧の為の囲いであった可能性もある)。


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