トレイン・シェッド(英語: train shed)は、鉄道の駅においてプラットホームと線路を同時に覆う大きな屋根である。トレイン・シェッドの下の空間を駅構内ホール[注釈 1](ドイツ語: Bahnhalle)とも呼ぶ。
実用的な目的としては、旅客を雨や風、直射日光などから保護することがある。それだけであれば各ホームごとに設けられた上屋(旅客上屋)でもある程度の機能を果たすことができるが、トレイン・シェッドでは都市の景観や旅客の心理に与える影響も重視されている。特に19世紀のヨーロッパや北アメリカの大都市の主要駅では、巨大なトレイン・シェッドが競うように建設された。こうしたトレイン・シェッドは、都市や鉄道会社を象徴する存在でもあった。20世紀に入るとトレイン・シェッドの流行は下火になるが、現代においても駅の新設や改装の際にトレイン・シェッドやそれに類似した屋根が設けられることはある。目次
1 歴史
1.1 誕生
1.2 トレイン・シェッドの発展
1.3 最盛期
1.4 アメリカでの衰退
1.5 20世紀のヨーロッパ
1.6 現代のトレイン・シェッド
2 構造
2.1 切妻形
2.2 アーチ形
3 文化的背景
3.1 都市と鉄道
3.2 温室
3.3 ピクチュアレスク
4 日本のトレイン・シェッド
5 主なトレイン・シェッドの一覧
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
歴史
誕生 リヴァプール・クラウン・ストリート駅(1833年の絵画)
1830年に開業した世界初の旅客鉄道であるリヴァプール・マンチェスター鉄道のリヴァプール側の起点駅であるクラウン・ストリート駅(英語版)では、駅舎に接するプラットホームと3本の線路が木造の屋根で覆われていた[1]。これが世界初のトレイン・シェッドである[2]。
その後、各地に鉄道が開業するとともに、トレイン・シェッドを持つ駅が建設された。当時の駅はプラットホームが1面(発着兼用)か2面(出発用と到着用)程度の小さなものではあったが、トレイン・シェッドは数本の線路(ホームに面しないものも含む)を覆うものであり、幅、高さ、長さともに少しずつ大型化した[3]。
北アメリカにおける最初のトレイン・シェッドは、1835年に開業したローウェル駅のもので[2]、当時はCar houseと呼ばれていた[4]。ただしアメリカではヨーロッパほど駅の建設に費用はかけられず[5]、ホームの屋根は駅舎の庇を伸ばした程度のもので済まされることが多かった[6]。
北アメリカでは、鉄道の開業以前から存在した有料道路の料金所に、道路部分をまたぐように屋根を設けたものがあり、これがトレイン・シェッドの原型になった。ただしこうした屋根付き料金所はイギリスには存在しなかった。イギリスのトレイン・シェッドは、宿屋の車寄せ(当時は駅馬車の発着所を兼ねていた)の屋根を真似たものが起源であると考えられている[2]。 ユーストン駅の入口。トレイン・シェッドは右奥にある。
1830年からしばらくの間、駅の構造については試行錯誤が繰り返されていた[7]。1837年に開業したロンドン・バーミンガム鉄道(英語版)のロンドン・ユーストン駅では、プラットホームと線路をトレイン・シェッドで覆い、その側面に駅舎を配置し、さらに前方の駅前広場に面する側に門(通称ユーストン・アーチ(英語版))を設けてシェッドが直接市街から見えないようにした[8]。1850年頃からは、このように駅のファサードでトレイン・シェッドを隠す構造が大都市におけるターミナル駅の基本形として定着することになる[9][10]。
ユーストン駅は、トレイン・シェッドの主要な建材として鋳鉄を利用した最初の例でもある[1][11]。
初期のトレイン・シェッドの中には、不十分な構造設計のまま作られたものもあり、ロンドンのブリックレイヤーズ・アームズ(英語版)駅のトレイン・シェッドは1844年と1850年に崩落事故を起こしている[11]。
トレイン・シェッドの発展 パディントン駅(2009年撮影)
1851年、ロンドン万国博覧会の会場として建てられた水晶宮は、鉄骨とガラスを多用し、建築界に大きな衝撃を与えた[12]。1850年代のトレイン・シェッドにもその影響は現れており、自身も万国博委員であったイザムバード・キングダム・ブルネルはロンドン・パディントン駅(2代目、1854年)のトレイン・シェッドを設計した[13]。
1860年代になると、大都市の主要駅は多数のプラットホームを持つ大きなものになり、トレイン・シェッドもそれにつれて大型化した。トレイン・シェッドの幅や高さ、径間などの競争は、鉄道会社や技術者にとっての名誉をかけたものでもあった。