トルファン
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「トルファン」はこの項目へ転送されています。中華人民共和国新疆ウイグル自治区の地級市については「トルファン市」をご覧ください。

中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 高昌区
蘇公塔蘇公塔
トルファン市中の高昌区の位置トルファン市中の高昌区の位置
簡体字高昌
繁体字高昌
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カタカナ転写ガオチャン
ウイグル語???????? ??????
ウイグル語ローマ字転写Qarahoja
国家 中華人民共和国
自治区新疆ウイグル
地級市トルファン市
行政級別市轄区
面積
総面積13,689.71 km²
市区14.9 km²
人口
総人口(2010)27.3 万人
経済
電話番号0995
郵便番号838000
ナンバープレート新K
行政区画代碼650402
公式ウェブサイト: ⇒http://www.turpanchina.gov.cn/
街の風景。背後にあるのは蘇公塔

高昌区(こうしょう-く)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区トルファン市に位置する市轄区トルファン盆地の中央に位置する。古くより交通の要所であり、シルクロードの要衝として栄えた。現在は観光都市となっている。
歴史

前漢代に車師国の一つ車師前国があり、その王城は交河城(ヤルホト)と言った。この城の下には河が流れているので、交河城と言う。その当時で人口が六千五百とある(当時の首都・長安の人口が二十四万ほど)。この交河は現在のトルファン市街から西に10キロメートルほど行った所にその遺跡がある。これに対して漢は現在のトルファン市街から東へ45キロメートル行った所に高昌城(カラホジョ)を築いて屯田を行っていた。

その後、中国から戦乱を避けて高昌へと移り住むものが多くなり、北涼の王族の沮渠氏が車師国を滅ぼして、450年に高昌国を立てる。この高昌国は柔然に圧迫されて滅び、その後は北方民族(柔然・高車突厥)の影響下の元に?・張・馬の四氏が王となり、498年?嘉(きくか)が高昌王になり、640年に滅ぼされるまで続く。

高昌を征服した唐はこの地に安西都護府を置いて西域経営の拠点とした。しかし唐は755年ソグド人突厥の混血でもあった安禄山による長安占領(安史の乱)などを経て国力を弱めていく。唐はその後、ウイグル帝国に援軍を要請し、ウイグル軍が安史の乱を鎮圧する。以後、ウイグル帝国とともにチベット(吐蕃)も唐の混乱に乗じて台頭する。

9世紀になると天山ウイグル王国の支配下に入り、夏都とされた。

モンゴル帝国の征服後にはチャガタイ・ハン国に領有され、分裂後は東チャガタイ・ハン国の領有となる。チャガタイ・ハン国が弱体化しティムールに支配されるとその支配下となったが、1500年シャイバーン朝によりティムール朝が弱体化すると、再び東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)の支配下となる。1514年にチャガタイの末裔がカシュガルヤルカンド・ハン国を建てると、1679年までその支配下となった。

トルファンの名前は代より流布し始め、その意味はウイグル語で「くぼんだ地」を意味する。西域番国志によると、15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「土爾番」と記録されている)を訪れている。

代にはジュンガルとの間で争奪戦が行われ、清が勝利する(ジョーン・モドの戦い(英語版))。

20世紀にはいると、ドイツグリュンヴェーデルル・コックイギリススタイン探検隊日本大谷探検隊がこの地に入り、出土品を持ち帰った。


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