この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "トルコ革命"
トルコ革命
種類市民革命 社会革命
目的帝政打倒と共和制国家の樹立
対象オスマン帝国のイスタンブル政府
結果トルコ大国民議会の勝利
オスマン帝国を打倒して新たなトルコ共和国を樹立
ムスリムに代わる「トルコ国民」意識の形成
発生現場トルコ
期間1919年-1938年
指導者ムスタファ・ケマル・アタテュルク
関連団体「トルコ人の炉辺」、『カドゥロ』、『ケマル主義トルコ』
関連事象『トルコ言語協会』(1931)、『トルコ歴史協会』(1933)の設立
トルコ革命(トルコかくめい)は、トルコにおいて、第一次世界大戦に敗戦した後のオスマン帝国解体の危機において、アンカラに樹立された大国民議会政府が祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して新たにトルコ共和国を樹立する過程で行われた一連の運動。ムスタファ・ケマル・アタテュルクがその指導者となり、トルコ共和国の初代大統領に就任した。
トルコ革命によりトルコは共和制を宣言し、オスマン家を頂点としイスラム教を国教とする帝国からトルコ民族による近代的・西欧的・世俗的な国民国家への転換がはかられた。この革命の結果、トルコは中東諸国において支配的なイデオロギーであったイスラムを政治の場から分離することに成功し、国民国家の要件である均質化された国民と自国民による自立的な国民経済の創出をかなりの程度に実現したが、東部の経済開発の遅れ、都市と農村の経済格差などの問題は先送りにされ、クルド人問題やイスラムの社会参加をめぐる軋轢が21世紀まで大きな課題として残された。 歴史学者の永田雄三によれば、トルコ革命はもっとも狭義には1922年から1923年にかけて行われたオスマン帝国の帝政の廃止とトルコ共和国の建国宣言という事件を指すが、一般的にはその後に続くトルコの近代化改革をもトルコ革命に含める。もっとも広義には、終戦直後の1919年から1922年まで足かけ5年にわたって繰り広げられた占領国に対する祖国解放運動もトルコ革命の一部とみなされる。 オスマン帝国がムドロス休戦協定を結んで連合国に降伏して第一次世界大戦に敗北したとき、広大な帝国のうちアラブ地域は連合国によってほとんど占領されていたが、アナトリアの全域と東トラキア(ルメリアの一部)、北シリアのアレッポ、ジャズィーラ(現イラク北部)のモースルは依然としてオスマン軍の勢力下に残っていた。しかし、休戦協定が発効すると連合国は休戦協定の条文を盾に、戦時中の列強国同士の協定に従ってオスマン帝国の残存領土に進駐し、アナトリアはイギリス、フランス、イタリア、ギリシャによって各方面ごとに分割占領された。また、これに呼応してアナトリア半島内のアルメニア人やギリシャ人の中から独立運動に乗り出すものが現われ、オスマン帝国は残された領土の中核をなすトルコ人の居住地帯でさえほとんど細切れに分断されようとしていた。 この状況に対しアナトリア各地でも分割に反対する抵抗運動が起こりつつあったが、帝国政府は王朝の保身に走って占領政策に迎合し、ムスタファ・ケマル准将を軍監察官としてアナトリアに派遣した。 ところがケマルには反意があり、1919年5月19日にアナトリア黒海沿岸のサムスンに上陸すると、アナトリアに駐留する帝国軍や活動家を結集して「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を起こした。同年末に召集された帝都イスタンブールにおける帝国議会も権利擁護委員会の影響下に入り、翌1920年1月28日、帝国領のうちトルコ人が多数を占める地域が不可分であることをうたう「国民誓約」を採択した。 イギリスを中心とする連合国は3月16日にイスタンブールを占領し、アナトリア西南部エーゲ海沿岸を占領するギリシャ軍を抵抗運動の強い内陸に向かって進軍させるとともに、8月10日に帝国政府とセーヴル条約を結んだ。この条約ではトルコ国家に残されるのはアナトリア北部の3分の2に過ぎず、アナトリア東部にはアルメニア人の国家を建設することを認めた。旧ロシア帝国領のアルメニア(現アルメニア共和国領)ではダシナク党によるアルメニア第一共和国が建設されており、東部アナトリアには既にアルメニア軍が侵攻していた。 これに対し抵抗運動の権利擁護委員会はイスタンブールから逃れてきた帝国議会の議員に権利擁護委員会の支部で選出された議員をあわせ、4月23日にアンカラで「大国民議会」を開いた。大国民議会はムスタファ・ケマルを議長に選出し、議長を指導者として独自の内閣と政府を持つ政府に発展する。 アンカラの大国民議会政府はロシアのソビエト政権と連絡をとり、1920年中にキャーズム・カラベキル将軍率いる東部方面軍がダシナク党のアルメニア軍を撃退、東部アナトリアを確保した。
トルコ革命の展開
祖国解放戦争セーブル条約下のアナトリア
東部戦線詳細は「トルコ・アルメニア戦争」を参照
南部戦線詳細は「トルコ・フランス戦争(英語版
南部ではキリキアに駐留してその領有をねらうフランス軍との戦闘になった。1920年5月から1921年10月まで続いた戦争はトルコも勝利を収めることができなかったが、21年10月にアンカラ条約を結び、翌1922年からフランス軍はトルコの南に確保していたフランス委任統治領シリアへ撤退を始めた。
西部戦線詳細は「希土戦争 (1919年-1922年)」を参照
西部戦線では、1921年にケマルの腹心イスメトが西部方面総司令官に任命されてアンカラ政府が攻勢に転じ、2度にわたってギリシャ軍を撃退したが、コンスタンティノス1世国王が自ら指揮を執って態勢を立て直したギリシャ軍の逆襲によりアンカラ西部の要衝エスキシェヒルを奪われた。
この非常事態に対し1921年夏、ケマルは議会から全軍の指揮権を付与されると、サカリヤ川の戦いでギリシャ軍を敗走させた。翌1922年9月9日、アンカラの大国民議会政府軍は西南アナトリアの拠点都市イズミルを奪還し、ギリシャ軍をアナトリアから駆逐した。 ギリシャ軍の敗走を見て連合国はセーヴル条約を放棄し、ローザンヌで再び講和を行うことを大国民議会と帝国政府に通告した。
オスマン帝国の廃絶