トリノ=ミラノ時祷書
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『洗礼者ヨハネの誕生』、「画家 G」(トリノ)[1]

『トリノ=ミラノ時祷書』(トリノ=ミラノじとうしょ、: Turijn-Milaan-Getijdenboek、: Ore di Torino)は、15世紀に制作が開始されたが、後に分割されて最終的には未完成に終わった装飾写本の分冊。厳密な定義からすると時祷書とは必ずしもいえないが、その並外れて高い品質と美術史上の重要性、さらに交錯した制作過程と後年にたどった歴史によって有名な作品である。

この時祷書には、1420年ごろにヤン・ファン・エイクとその兄フーベルト・ファン・エイクが描いた、あるいはこの二人と関係がある芸術家によるものと思われる挿絵(ミニアチュール)が含まれている。さらにその後10年以上経ってから、バーテルミー・デック[2]も数点のミニアチュールを追加したと考えられている。

数箇所の場所に分割して所蔵されていたが、そのうちトリノで保管されていたものが1904年に火事にあって焼失してしまい、現在では白黒写真しか残っていないものがある[3]
来歴

『トリノ=ミラノ時祷書』の制作が始まったのは1380年か1390年ごろのことである。おそらく制作依頼主は、後にこの時祷書の所有者となる、フランス王シャルル5世の弟で、当時もっとも多くの装飾写本を収集していたベリー公ジャン1世だったと考えられている。また他の説として、シャルル5世とジャン1世の伯父で、フランス宮廷の有力者だったブルボン公ルイ2世が依頼主ではないかとするものもある[4]。「時祷書」という名前で呼ばれてはいるものの、その内容は時祷書、祈祷書、ミサ典礼書が組み合わされたようなあまり例のない書物で、内容には多くのミニアチュールが使用されている。

最初に制作にかかわった芸術家は、当時の第一人者で「ナルボンヌ祭壇画の画家」または「パルマンの画家」(en:Master of the Parement) と呼ばれていた画家だった[5]。おそらくジャン1世がこの時祷書を所有していたと思われる1405年ごろには他の芸術家も制作に関与するようになり、その後、未完成の状態だった装飾写本はジャン1世の財務担当官ロビネ・デゼスタンに下賜され、デゼスタンの手によって複数に分割された[6]。分割された時祷書のうち、デゼスタンはミニアチュールの大部分が完成していた部分を手元に残し、これが後に『ベリー公のいとも美しき聖母時祷書』として知られるようになる[7]

『ベリー公のいとも美しき聖母時祷書』は18世紀までデゼスタン家が所有していたが、19世紀にこの時祷書を所有していたロートシルト家から、1956年にパリのフランス国立図書館に寄贈された[8]。25点のミニアチュールが描かれた126枚の二折版で、ミニアチュールのうち最後に描かれたものは1409年ごろの作品であり、このなかにはリンブルク兄弟が描いた作品が含まれている[9]『聖十字架の発見』、「画家 G」(トリノ)。

ロビネ・デゼスタンはジャン1世から下賜された時祷書のうち『ベリー公のいとも美しき聖母時祷書』以外の部分は売り払ったと考えられている。このことから、当時の装飾写本ではテキストよりも挿絵たるミニアチュールが重要視されていたということができる。

デゼスタンが売り払ったのは、文章こそ完成していたがミニアチュールはほとんど描かれていなかった部分で、これらはネーデルラントの芸術家を庇護した、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公ヨハン3世[10]、あるいはその一族が1420年までに入手した[11]。そして、ヴィッテルスバッハ家が入手して以降、装飾写本には2度にわたってミニアチュールが追加されており、最後に手が加えられたのは15世紀半ば近くになってからのことだった。

美術史家ジョルジュ・ユラン・ド・ルーは、この装飾写本には11人の画家のミニアチュールが確認できるとし、「画家 A」から「画家 K」までの作品として分類した[12][13]。その後、この装飾写本はブルゴーニュ公フィリップ3世、あるいはブルゴーニュ宮廷の関係者の所有となっている。バイエルン公家の宮廷画家だったヤン・ファン・エイクが、ヨハン3世の死後にブルゴーニュ公家の宮廷画家になっていることから、ヤン・ファン・エイクがブルゴーニュ公国へと装飾写本を持ち込んだ可能性もある。

ブルゴーニュ公国へ持ち込まれた装飾写本の大半がもとの時祷書の祈祷書部分であり、これがのちに『トリノ時祷書』として知られるようになった。1479年にサヴォイア家の所有となり、1720年にサルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世がトリノ国立図書館へと寄贈した。しかしながら、1904年にトリノ美術館が火災にあい、所蔵されていた他の貴重な写本ともども、『トリノ時祷書』は40点のミニアチュールが描かれた93枚分が焼失、破損してしまった[14]。火災にあう以前の1800年ごろに、イタリアの王族と思われるコレクターが、『トリノ時祷書』のうちミサ典礼書にあたる部分をフランスのパリへと持ち込んでおり、これがのちに『ミラノ時祷書』と呼ばれるようになったものである。

そして1904年の火災の後、28点のミニアチュールが描かれた126枚分の『ミラノ時祷書』を、トリノが1935年に入手し[15]、現在トリノ市立美術館の所蔵となっている。また、オリジナルの『トリノ時祷書』から、おそらくは17世紀に8枚分が除かれている。そのうち、5点のミニアチュールが描かれている4枚はルーヴル美術館が所蔵しており、この5点のミニアチュールのなかで、大きめの作品4点はフランス時代にフランス人画家が描いたもので、残る作品1点は後年になってからフランドル時代に追加されたものである (RF 2022-2025)[16]

最後期になってから追加されたミニアチュールが描かれた1枚を、アメリカのJ・ポール・ゲティ美術館が所蔵しているが、これはベルギーのプライベートコレクションから、一説では100万米ドルで購入したものだといわれている[17]
ミニアチュールと縁飾り『ベリー公のいとも美しき聖母時祷書』、フランス国立図書館(パリ)。
「ナルボンヌ祭壇画の画家」またはその工房が描いたページ。縁飾り部分にある小さな絵は、別のミニアチュール作家の手によるものである

『トリノ=ミラノ時祷書』のページのサイズは284mm x 203mm程度である。ほとんどすべてのページに挿絵が描かれており、4行のテキストの上に主たるミニアチュールが、ページ下部に細長い小さな挿絵があるという形式となっている。ほとんどのミニアチュールが、そのページのテキストの最初の部分を表現したもので、テキストの最初の文字は飾り文字、あるいは精緻な装飾を施した四角形のなかに書かれている。

ページ下部の挿絵は、宗教的題材または旧約聖書に題材をとったメインのミニアチュールとなんらかの関連を持つ、当時の生活風景が描かれていることが多い。

縁飾りには一つの例外を除いて、シンプルなデザインで、木の葉を様式化したものが全般にわたって使用されており、縁飾りのほとんどは、制作開始初期の14世紀の時点でほとんど完成していた。縁飾り部分の制作は、工房の若手芸術家や下請けの職人が行った可能性がある。最初期に完成したページの縁飾りには、ミニアチュール作家による小さな天使、動物(多くは鳥)、人物などが描かれていた。しかし後年になってから完成したページの縁飾りには、このような装飾はほとんど描かれていない。

前述の一つの例外となっている縁飾りが使用されていたのは、「画家 H」による聖母子が聖女たちに囲まれている場面 (Virgo inter Virgines) が描かれているページだったが現存していない。このページに使用されていた縁飾りは、1430年以前に描かれていた他のページと同じような縁飾りを一部そぎ落として、15世紀後半の様式による華麗な装飾で上描きされている。これはおそらく、もとの縁飾り部分に当時の所有者の肖像が描かれていたためで、その肖像の痕跡も確認することができる[18]
制作に携わった芸術家

フランス人美術史家ポール・デュリューは、焼失する2年前の1902年に、写真も掲載した『トリノ時祷書』のモノグラフを出版した。デュリューは、トリノとミラノの時祷書が同じ書物から分割されたものであることに気がついた最初の人物で、描かれているミニアチュールとファン・エイク兄弟を関連付けた最初の人物でもある。

美術史家ジョルジュ・ユラン・ド・ルーも1911年に『ミラノ時祷書』に関する著作を発表しており、このなかでミニアチュールを描いた画家を年代順に「画家 A」から「画家 K」までに分類した。失われた『トリノ時祷書』の作者には一部異論が出ているものの、このユラン・ド・ルーが行った画家の分類は、現在でもほぼ定説となっている。しかしながら、「画家 A」から「画家 K」が、実際にどの画家を指すのかについては大きく意見が分かれており、とくに「画家 J」のミニアチュールについては、一人ではなく複数の画家の作品ではないかとも言われている。

時祷書が分割される以前の「画家 A」から「画家 E」まではフランスの画家、分割されて以降の「画家 G」から「画家 K」はネーデルラントの画家とされ、「画家 F」については研究者によって分類が分かれている[19]『ミラノ時祷書』の「キリスト磔刑」のミニアチュール。「画家 H」(トリノ)。

『トリノ=ミラノ時祷書』のなかでは、「画家 G」が描いたミニアチュールがもっとも優れた作品と見なされている。ユラン・ド・ルーは「画家 G」のミニアチュールについて、「書物の装飾としては、それまでに見られないほどの素晴らしい作品で、美術史上の見地からしても当時最高の芸術品である。一目見ただけで、現代の絵画にまで及ぶ重要性が理解できる。・・・古より、絵画は空間と光の表現を追求し続けてきたのである」としている[20]


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