トリスタンとイゾルデ_(楽劇)
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Wagner: Tristan und Isolde, WWV 90
- マーガレット・プライス(イゾルデ)、ルネ・コロ(トリスタン)、ブリギッテ・ファスベンダー(ブランゲーネ)、クルト・モル(マルケ王)、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(クルヴェナール)ほか、カルロス・クライバー指揮シュターツカペレ・ドレスデンおよびライプツィヒ放送合唱団による演奏、Universal Music Group提供のYouTubeアートトラック。
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『トリスタンとイゾルデ』(Tristan und Isolde)は、リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇台本も作曲者自身による。

全3幕からなり、1857年から1859年にかけて作曲された。一般に「楽劇 (Musik Drama)」と呼ばれているが、ワーグナー自身は総譜及びピアノ譜に単に「3幕の劇進行 (Handlung)」としている。1865年6月10日、ミュンヘンバイエルン宮廷歌劇場において、ハンス・フォン・ビューロー指揮で初演された。演奏時間は約3時間55分(第1幕80分、第2幕80分、第3幕75分)[1]

物語は、ケルトに起源を持つと考えられている古代トリスタン伝説(トリスタンとイゾルデを参照)によっており、直接的にはゴットフリート・フォン・シュトラースブルク(1170年頃 - 1210年)の叙事詩を土台として用いている。

ワーグナー自身が「あらゆる夢の中で最も麗しい夢への記念碑」(下記#作曲の経緯参照)と述べているように、この作品はの究極的な賛美であるとともに、その一方で、感情的な体験を超えて形而上的な救済を見いだそうとするものともなっている。作品全体に浸透した不協和音の解放によって『トリスタンとイゾルデ』は、ヨーロッパ音楽史上の里程標と見なされている。また、この作品の極限的な感情表現は、あらゆる分野にわたって何世代もの芸術家に圧倒的な影響を及ぼすものとなった[2]

第1幕への前奏曲と第3幕終結部(イゾルデの「愛の死」)は、ワーグナーが全曲の初演に先立って演奏会形式で発表したことにちなみ、現在でも独立して演奏会で演奏される。
作曲の経緯ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』リブレットの表紙
着想

1849年のドレスデン蜂起に失敗したワーグナーは、政治犯として指名手配され、スイスに逃れた。そこでワーグナーのパトロンとなったのがオットー・ヴェーゼンドンク(1815年 - 1896年)である。ヴェーゼンドンクはチューリッヒ近郊の自宅に隣接する家をワーグナーに提供し、1857年からワーグナーは妻ミンナとここに住んだ。

ワーグナーの自伝『わが生涯』によると、彼がトリスタン伝説に基づくオペラ作品を着想したのは1854年の秋である。1854年12月16日付フランツ・リストに宛てた手紙に、ワーグナーは次のように書いた。

「自分はこれまでに一度も愛の幸福を味わったことがないので、あらゆる夢の中でも最も美しいこの主題のために一つの記念碑を打ち立て、そこで愛の耽溺のきわみを表現したいと思ったのです。こうして『トリスタンとイゾルデ』の構想を得ました。」[3]

残っているスケッチで最も古いものには1856年12月19日の日付があり、この時点でワーグナーは『ニーベルングの指環』四部作のうち、『ジークフリート』第1幕の作曲中であった。ひきつづいてワーグナーは『ジークフリート』第2幕にとりかかったが、そのオーケストラ・スケッチに「トリスタン決定ずみ」とメモ書きしており、翌1857年8月に作曲を中断する[4]。中断の理由は、一連の大作の上演のメドが立たず、もっと一般受けのする「小ぶりの作品」を書く必要があると考えたことによる(ジークフリート (楽劇)#中断の事情も参照のこと)。
作曲、マティルデ・ヴェーゼンドンクとの恋愛マティルデ・ヴェーゼンドンク(カール・フェルディナンド(子)画 1850年)

また、このころからワーグナーとヴェーゼンドンクの妻マティルデ(1828年-1902年)との恋愛関係が始まり、『トリスタンとイゾルデ』は二人の関係を理想化する内容ともなっていった。同時期に書かれた『ヴェーゼンドンク歌曲集』はマティルデ・ヴェーゼンドンクの詩によるもので、5曲のうち「夢」と「温室にて」には「トリスタンへの習作」と副題が付けられ、それぞれ「愛の二重唱」(第2幕)、第3幕への前奏曲の旋律に転用された。

『ジークフリート』の中断以降、ワーグナーは1857年8月20日に『トリスタンとイゾルデ』の散文による筋書きに取りかかり、韻文による台本完成は1857年9月18日である。この台本はマティルデに捧げられた。作曲は10月1日から取りかかり、第1幕が1858年4月3日チューリヒで、第2幕が1859年3月18日ヴェネツィアで、第3幕が1859年8月6日にルツェルンでそれぞれ完成した[5]

1858年1月13日に第1幕のオーケストラ・スケッチを終えたワーグナーは、スケッチの末尾に「このような作曲は、いまだかつてなかった」と書いている[6]。翌1859年、第2幕の完成後にはマティルデ・ヴェーゼンドンクに宛てた手紙で「私の芸術の最高峰」と述べ(#「移行の技法」を参照)、同年の全曲完成後には、「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだという[7]。後にこの作品を初演することになるハンス・フォン・ビューローは、「音楽新報」編集長のフランツ・ブレンデルに宛てた書簡(1859年)で次のように述べた。

「私はあなたに、このオペラがこれまでの音楽全般の頂点に位置しているということを断言いたします。」[8]

なお、第2幕以降がチューリヒで作曲されなかったのは、第1幕完成直後にワーグナーとマティルデの関係が発覚したことによる。1858年4月7日、ワーグナーの妻ミンナは、ワーグナーがマティルデに宛てた秘密の手紙を手に入れた。オットー・ヴェーゼンドンクはこれを静観し、マティルデもまた自分の家庭を破壊することは望まなかったことから、ワーグナー夫妻がチューリヒを出ていくことになったのである。8月にワーグナーはヴェネツィアに移り、ミンナはひとりドレスデンに去った。ワーグナーのヴェネツィア滞在は1859年3月28日までであり、滞在費用はひきつづきオットー・ヴェーゼンドンクが負担していた[9]
初演ルートヴィヒ・シュノル・フォン・カロルスフェルト(トリスタン)とマルヴィーネ・シュノル・フォン・カロルスフェルト(イゾルデ)。1865年のミュンヘン初演時。

1865年6月10日、ミュンヘンバイエルン宮廷歌劇場
初演者

ハンス・フォン・ビューロー指揮

マルヴィーネ・シュノル・フォン・カロルスフェルト(イゾルデ)

ルートヴィヒ・シュノル・フォン・カロルスフェルト(トリスタン)[10]

アンナ・ダイネット(ブランゲーネ)

ルートヴィヒ・ツォットマイヤー(マルケ王)

アントン・ミッターヴェルツァー(クルヴェナール)

初演の経緯

「作曲の経緯」で述べたように、「小ぶりの作品」のつもりが結果的に到底手軽に演じられるものではなくなったため、『トリスタンとイゾルデ』の上演機会はなかなか訪れなかった。1860年、ワーグナーは『タンホイザー』のパリ初演のためにフランスに滞在し、このとき『トリスタンとイゾルデ』上演の感触を探ろうとして、パリの演奏会で第1幕への前奏曲を取り上げた[11]


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