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トリエント公会議(トリエントこうかいぎ、ラテン語: Concilium Tridentinum, ドイツ語: Konzil von Trient)は、教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の第19回公会議[1]。トレント公会議(とれんとこうかいぎ、イタリア語: Concilio di Trento)[2]とも。
諸事情により多くの会期が断続的に行われたが、プロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、対抗宗教改革といわれるカトリック教会の刷新と自己改革の原動力となった。 宗教改革運動の立役者であるマルティン・ルターは決して最初から新しい教会を作ろうとしていたわけではなく、カトリック教会の自己改革をしきりに呼びかけていた。その中でルターは公会議の開催をも要求していた。しかし15世紀は公会議主義と教皇首位説のせめぎあいの時代であり、一度は公会議主義が勝利を収めたかにも見えた時期もあった。このため教皇側は公会議を危険視、開催に対しては過度に慎重になっていた。 しかしカトリック教会内部の停滞と宗教改革運動の高まりの中で、事態の緊急性を認識した教皇パウルス3世は神聖ローマ皇帝カール5世からの協力の申し出もあって公会議の開催を決断した[3]。はじめはイタリアのマントヴァを開催地として選んだが、フランスの反対によって挫折したため、神聖ローマ帝国領の自由都市トリエント(トレント)を改めて開催地とした。 こうして1545年3月15日に公会議が始められた。1547年まで続けられた最初の会期はシュマルカルデン戦争が激化したことにより開催地を一時ボローニャに移し[1]、やがて伝染病の流行によって中断された。1551年に教皇ユリウス3世により第2会期が始められたが、翌1552年にルター派であったザクセン選帝侯モーリッツがカール5世に勝利したことから会議の安全が危惧されて中断した。
歴史
公会議の開会まで
公会議の流れ