トラヤヌス
Marcus Ulpius Nerva Trajanus Augustus
ローマ皇帝
「トラヤヌス胸像」(グリュプトテーク所蔵)
在位98年1月27日から1月28日 - 117年8月8日
全名マルクス・ウルピウス・トラヤヌス
Marcus Ulpius Trajanus
カエサル・マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス(後継者指名時)
Caesar Marcus Ulpius Nerva Trajanus
インペラトル・カエサル・ディウィ・ネルウァエ・フィリウス・ネルウァ・トラヤヌス・オプティムス・アウグストゥス・ゲルマニクス・ダキクス・パルティニクス(即位後)
Imperator Caesar Divi Nervae filius Nerva Trajanus Optimus Augustus Germanicus Dacicus Parthicus
出生53年9月18日
ヒスパニア・バエティカ属州、イタリカ
マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス(ラテン語:Marcus Ulpius Nerva Trajanus Augustus マールクス・ウルピウス・ネルウァ・トライヤーヌス・アウグストゥス[1]、53年9月18日 - 117年8月8日[2])は、ローマ帝国の皇帝(在位:98年 - 117年)で、ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝である。文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア、パルティアで功績をあげ、ローマ帝国史上最大の版図を現出した。
イタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝でもある。それまでは、首都ローマを含むイタリア本土出身者の最上流貴族しか皇帝に選ばれたことはなかった。
トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している[3]。 トラヤヌスは53年9月18日、ヒスパニア・バエティカ属州の植民市イタリカ (Italica
生涯
生い立ち
トラヤヌス家もイタリア本土に祖先を持つ由緒正しい「古きローマ人」の家系であったが、「属州初の皇帝」という表現によって「属州民の血を引いている」と誤解される場合も多い[5]。なお、トラヤヌスはパトリキでもなかったが、これは初代皇帝アウグストゥスも同様である。
トラヤヌス家はウルピウス氏族に属する一族で、父親は先に述べたとおり元老院議席を持つ上流貴族であった。トラヤヌス自身も後にウルピウス氏族が誇りとする祖先の一人となった。イタリカ市はウルピウス氏族にとってバエティカにおける根拠地として機能していた[4]。彼らは紀元前3世紀頃からイタリカへの入植を開始したが、これはイタリア本土出身者が主導権を握る都市であることの証明でもある。
即位までのキャリアトラヤヌス
青年期を迎えるとトラヤヌスは軍団への参加を通じて政治的キャリアを築き始め、各地を転戦する日々を送る。父がシリア総督として現地に赴任した74年、トラヤヌスもトリブヌス・ミリトゥム(幕僚)として派遣された記録が残っている。76年にはクァエストル(財務官)、84年にはプラエトル(法務官)に就任している。86年にはヒスパニア・タラコネンシス属州に第7軍団ゲミナ (Legio VII Gemina) のレガトゥス・レギオニス(軍団長)として駐留するなど、フラウィウス朝時代に立身出世を果たした。
ライン川防衛の指揮官であった上ゲルマニア属州総督ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌス(英語版)が第14軍団ゲミナと第21軍団ラパクスを率いてドミティアヌスに対して反旗を翻すと、その鎮圧に功績をあげた[6]。明確に歴史の表舞台に立つのは、91年のコンスル(執政官)就任に伴うローマ凱旋時で、シリア属州から建築家ダマスクスのアポロドロスを連れて帰国した。
96年、ドミティアヌス暗殺によってフラウィウス朝が断絶すると、元老院の支持をまとめた古参貴族の元老院議員ネルウァが皇帝に即位した。子息を持たず高齢であったネルウァは当初はシリア属州総督のマルクス・コルネリウス・ニグリヌス・クリアティウス・マテルヌスを選んだと考えられているが、97年に結局は後継者としてトラヤヌスを指名した。軍の支持を集めるトラヤヌスの指名をプラエトリアニ(近衛隊)に強要され、跳ね除けることができなかったためとされる。『ローマ皇帝群像』は、このときトラヤヌスの従甥ハドリアヌスが重要な役割を演じたと主張している[7]。翌年にネルウァが2年足らずの治世で崩御すると、あらかじめ養子縁組を結んでネルウァ家の家督を継いでいたトラヤヌスが即位した。実質的にネルウァ帝が中継ぎに終わったことに加えて軍の支持もあり、帝位は円滑に継承された。 トラヤヌスの即位は、民衆からもおおむね好意的に受け止められた。トラヤヌス自身も、ドミティアヌスが支持を失った原因である強圧的な統治を極力避け、穏当な統治を心がけた。具体的にはドミティアヌス時代に不当な理由で投獄されていた囚人を解放し、また同じくドミティアヌスが没収していた私有財産を元の所有者に返還した。 これらの政策はネルウァ時代からすでに行われていたが、トラヤヌスもドミティアヌスの治世を否定する路線を継承した。こうした行為はドミティアヌスと敵対した元老院からも絶賛され、「オプティムス」(Optimus, 至高の)という名誉称号を与えられる一因にもなった[8][9]。 トラヤヌスの名声は2度にわたる歴史的な戦勝によって記憶されているが、その片方がダキア地方への遠征と併合である。以前から土着住民の国家であるダキア王国の属国化が試みられていたが、ローマ側はドミティアヌス時代にダキア王デケバルスの軍勢に大敗を喫し、最終的に賠償金を支払って撤退するという屈辱的な和平を結ばされた経験があった。それ以来、勢いを得たダキア王国は勢力を拡大し続け、逆にローマ側の領土を侵略するまでに至っていた[10] 。トラヤヌスはダキア王国へ親征し、決着を付けることを決意した。 101年、一度目の遠征で3月から5月にかけてダキア軍との緒戦に勝利して、トラヤヌスと遠征軍はダキア領内に橋頭堡を形成した[11]。続いてドナウ川を渡河するとタパエ
ドミティアヌス時代への弾劾
ダキア戦争詳細は「ダキア戦争」を参照ローマ統治下のダキアの地勢
しかし解放されたデケバルスは反乱軍を組織して立ち上がり、105年にローマ領へ侵攻した[13]。106年、トラヤヌスはダマスクスのアポロドルスに命じてドナウ川を渡河するための大橋を建設させ、南ダキアに再度親征した。第二次ダキア戦争 (Second Dacian War) は激しい攻防戦の末に、ダキア王国の都サルミゼゲトゥサ・レギア (Sarmizegetusa Regia) が陥落して終結した。デケバルスは逃亡したものの追い詰められた末に自害に及び、遺体から切り落とされた首が元老院議場の前に晒された。
戦後、「ダキア属州」となった旧ダキア王国領には大規模な植民行為が行われた。破壊された王都跡には植民市ウルピア・トライアナ・サルミゼゲトゥサ (Ulpia Traiana Sarmizegetusa) が根拠地として建設された。併せてドナウ川防衛の要である鉄門付近の強化も行われ、トラヤヌス橋は当時最高水準の建築技術を駆使して建設されている[14]。また鉄門を中心とした運河の整備も行われたとの記録が残っている。
ダキアの金鉱開発は、ローマ帝国にとっての新しい財源として国を富ませ、ローマ市では勝利を祝ってトロフィーに続いて記念柱(トラヤヌスの記念柱)が建設された。記念柱とトロフィーは断片的な記録しか残っていないダキア遠征の資料として、後世に戦いの経過を伝えている。
ナバテア併合アラビア属州
ダキア戦争と同時期、ローマの衛星国ナバテア王国の君主ラッベル2世ソテル(英語版)が病没した。トラヤヌスはこの機会を逃さずナバテア王国を併合してアラビア・ペトラエア属州として編入した[15] とみられるが、詳しい経緯や方法は記録されていない。わずかに分かっているのは、エジプトで発見されたパピルス式の報告書に、107年にローマ軍の一部がナバテア王国の都ペトラ周辺に出兵したとの記録のみである[16]。 107年からの7年間、トラヤヌスは市民の皇帝として振舞い、民衆からの人気の維持に努めた。新たに公共建造物、記念碑などを建設したが、その多くは父祖の地であるイタリア本土と、生まれ故郷であるバエティカに集中した。とりわけ、ローマ市内の記念柱とトラヤヌスのフォルム、そしてトラヤヌスの市場が知られているが、それ以外にも各地に凱旋門 (Arches of Trajan
戦間期
経済政策ではデナリウス銀貨の切り下げを行い、銀の含有量を93.5%から89%に下げた[17]。ダキア戦争で収奪された金銀財宝とさらにこの切り下げで、大量のデナリウス銀貨を鋳造する結果となった。娯楽面では3ヶ月間にわたって大規模な剣闘技大会をコロッセウムで開催して、民衆の歓心を買おうとした。500万人の観客を動員したこの競技によって、1万1000名の奴隷が殺害されたと伝えられる。
奴隷達への過酷な政策の一方、ローマ市民に対してはそれまでの孤児救済政策(Alimenta)を正式化して、ダキア戦争で収奪した資金を投じて孤児院建設を増進させた[18]。しかし、この政策にどのような目的があったのかは現代でも議論の対象であり、慈善活動というよりは市民名簿の管理を徹底するのが本題だったのではないかとされる場合が多いが、純粋に福祉政策であったとする意見もある[19]。また、元老院議員の資産の3分の1をイタリア本土 (古代ローマ)へ投資することを定めた。
パルティア戦争アルメニア属州メソポタミア属州アッシリア属州パルティア遠征後のローマ帝国の最大版図(117年)
晩年となる113年、トラヤヌスは新たな戦争に乗り出した。東の大国パルティアのオスロエス1世が、両国の緩衝地帯であるアルメニア王国に傀儡君主パルタマシリスを立てると、トラヤヌスはこれを自身の即位15周年記念祭への侮辱行為とした[20]。アルメニアは東方属州における陸路貿易・海路貿易を独占する上で重要な戦略拠点と考えられており[21]、一部の歴史学者は、戦争の根本的原因はアルメニアを巡る権益争いであったと推測している。歴史家カッシウス・ディオはさらなる名声の獲得を目的とした個人的野心によるものであったと主張している[22] が、そのような見方は主流ではない[23]。現代では、東方属州北部におけるパルティアの影響力拡大を、とりあえずは防ぎたいという程度の遠征であったろうと見なされている[24]。
113年中にハドリアヌスによってアンティオキアで編成された遠征軍3個軍団(第3軍団ガリカ、第3軍団キュレナイカ、第10軍団フレテンシス (Legio X Fretensis) )は、114年の春を待って進軍を開始する[25]。道中、経由した駐屯地の軍団と合流し、第4軍団スキュティカ、第6軍団フェラタ、第12軍団フルミナタ (Legio XII Fulminata) 、第16軍団フラウィア・フィルマ (Legio XVI Flavia Firma) が戦列に加わった。さらに、アルメニアとの国境にある都市サタラ (Satala) では、ドナウ川方面の9個軍団から送られた分遣隊も到着[26]。計17個軍団、総兵力約8万の軍容となった[27]。
遠征軍は大きな問題もなくアルメニア領内に進入し、トラヤヌスは同国西部の都市エレゲイアにてパルタマシリスの退位とともに「アルメニア属州」の樹立を宣言した[28]。