トラフィック
Traffic
トラフィック(1973年)
基本情報
出身地
ウェスト・ミッドランズ
バーミンガム
ジャンルロック
ジャズ・ロック
ブルー・アイド・ソウル
サイケデリック・ロック
活動期間1967年 - 1969年
1970年 - 1974年
1994年、2004年
レーベルアイランド・レコード
アトコ・レコード
旧メンバースティーヴ・ウィンウッド
ジム・キャパルディ
トラフィック(Traffic)は、イングランドのロック・バンド。活況を呈した1960年代後半から1970年代前半のブリティッシュ・ロック・シーンで、様々なジャンルの音楽とロックとの融合を試みる実験精神を持ったバンドだった。スティーヴ・ウィンウッドが在籍していたことでも知られる。 1967年4月、元スペンサー・デイヴィス・グループのスティーヴ・ウィンウッド(ボーカル、オルガン)、デイヴ・メイスン
略歴
1967年?1969年
1968年[注釈 2]、セカンド・アルバム『トラフィック(英語版)』発表。全英アルバムチャートで9位、Billboard 200で17位を記録。同年9月にシングル・カットされた「フィーリン・オールライト」は、後に様々なシンガーやバンドに取り上げられた。しかし同アルバムの発表後にメイスンが脱退[注釈 3]。さらに1969年にはウィンウッドがエリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカー、リック・グレッチ(英語版)とブラインド・フェイスを結成。トラフィックは解散した。同年、片面にライブ音源を収録[注釈 4]したアルバム『ラスト・エグジット(英語版)』が発表された。 ブラインド・フェイスはデビュー・アルバム発表後に解散。ウィンウッドはベイカーが結成したジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース
1970年?1974年
ウィンウッド、キャパルディ、ウッドはグレッチ(ベース)、元デレク・アンド・ザ・ドミノスのジム・ゴードン(ドラムス)、リーバップ・クワク・バー(パーカッション)を迎えてトラフィックのライブ活動を再開し[注釈 6]、1971年6月から7月にかけて復帰したメイスン[注釈 7]を交えてロンドンで行なったコンサートの音源を収録したアルバム『ウェルカム・トゥ・ザ・キャンティーン(英語版)』を同年9月に発表[注釈 8]。続いて新作『ザ・ロウ・スパーク・オブ・ハイ・ヒールド・ボーイズ(英語版)』を11月に発表した[注釈 9]。その後、グレッチとゴードンに代えて、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオのロジャー・ホーキンス(ドラムス)、デヴィッド・フッド(英語版)(ベース)、バリー・ベケット(英語版)(オルガン)を迎えて[注釈 10]、1973年3月に『シュート・アウト・アット・ザ・ファンタジー・ファクトリー(英語版)』[注釈 11] を発表。マッスル・ショールズのメンバーとリーバップを連れてツアーを行ない、同年4月にドイツで開かれたコンサートの音源を収録した『オン・ザ・ロード(英語版)』を10月に発表した。
その後、ウィンウッドらは少人数編成に戻るべくマッスル・ショールズのメンバーに別れを告げ、ロスコ・ジー(ベース)を迎えた。キャパルディがドラマーの任に復帰して、1974年9月にアルバム『ホエン・ジ・イーグル・フライズ(英語版)』を発表し、ジーを含んだ4人編成でアメリカ・ツアーを開始した。しかし、ウィンウッドの健康状態が悪化して[注釈 12]ツアーを中止せざるを得なくなり、自分達の活動の見通しが立たなくなった[注釈 13]ので同年に解散した。 1983年、ウッドが肝機能不全により他界。享年39歳。 1994年、ウィンウッドとキャパルディがトラフィック名義でアルバム『ファー・フロム・ホーム
その後
1998年、メイスンとキャパルディが、デイヴ・メイスン & ジム・キャパルディ名義でツアーを行なう。翌年、ツアーの模様を収録したライブ盤を発表[2]。
2004年にロックの殿堂入りを果たし、オリジナル・メンバーのウィンウッド、メイスン、キャパルディ、ウッドが受賞者に選ばれた。授賞式にはウィンウッドら3名とウッドの妹ステファニーが出席し、デイヴ・マシューズがプレゼンターを務めた。引き続いて「ディア・ミスター・ファンタジー」が演奏されたが、メイスンの姿はなかった[注釈 15]。後日、彼にオリジナル録音と同様にベースを弾くことを強要したウィンウッドと、それを拒否してツイン・ギター編成を主張した彼との対立が原因だったことが発覚した[注釈 16]。