トラック野郎
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主人公・星桃次郎のトラック「一番星号」(第10作「故郷特急便」バージョン、ジャパントラックショー2016にて展示)

『トラック野郎』(トラックやろう)は、1975年から1979年にかけて東映の製作・配給で公開された、日本映画のシリーズ。全10作。

きらびやかな電飾と極彩画に飾られた長距離トラック(デコトラ)の運転手、「一番星」こと星桃次郎(演・菅原文太)と、「やもめのジョナサン」こと松下金造(演・愛川欽也)が巻き起こす大衆娯楽活劇である。
概要
作品誕生の経緯とシリーズ化

本作誕生のきっかけは、ジョナサン役の愛川が吹き替えを担当していたアメリカCBSテレビドラマ『ルート66』のようなロードムービーを作りたいという構想を抱き、自ら東映に企画を持ち込んだのが始まりであった[1][2]。しかし、『ルート66』は「若者2人がシボレー・コルベットを駆ってアメリカ大陸を旅をする」という内容であったため、当時40歳を迎えた愛川自身がそのままやるのには無理があると考えていた[3]

そんな中、1975年5月28日に放映されたNHKドキュメンタリー番組『カメラリポート 走る街道美学』[4]においてイルミネーションを点けたトラックが東名高速道路を走っている映像を目にした[5]愛川は「これならイケるんじゃないか?」と閃く。当時愛川が司会を務めていた情報バラエティ番組『リブ・ヤング!』にゲスト出演して知り合った菅原に「何とか映画にならないものか」と相談を持ちかけ[2][6]、2人で東映の岡田茂社長(当時)に企画を持ち込み直談判したところ、すんなり企画が通ったという[2][3]。愛川によれば「東映は岡田社長の鶴の一声で決まるから」とのこと[2][5]八代亜紀は、自分にトラック運転手の追っかけが出来る現象が生まれていたことも、映画誕生と関係しているのではないかと話している[7]。「トラック野郎」という題名は、当時の東映東京撮影所(以下、東映東京)企画部長・天尾完次による命名である[8]

シリーズ全10作の監督を務めた鈴木則文は、東映入社後、助監督時代から専属だった東映京都撮影所から東映東京に移って2年ほどが経ち、この間『聖獣学園』など3作品を演出、『女必殺拳シリーズ』など2作品の脚本を手がけていた。当時の東映の看板路線だった実録ヤクザ映画の人気が下火になりつつあった時期にこの企画を持ち込まれ、ヤクザ映画に代わる新たな娯楽作を送り出そうと制作に意欲を示していたが、本社の企画会議で岡田から「バカヤロー!トラックの運ちゃんの映画なんて誰が見るんだ!」と一蹴されて一旦は没になった[9]。しかし、当初予定していた別の作品が俳優の都合で頓挫し、岡田から「それでいいから作れ」と、急遽穴埋めとして本作が制作されることになった[9]。当初この枠で予定していた映画は、岡田裕介主演・檀ふみ共演の『華麗なる大ドロボウ』(山下耕作監督予定)であった[10]が、岡田が「お盆映画にしては弱すぎる」と制作を無期延期した[10]。宣伝部の福永邦昭は電飾トラックを紹介する雑誌記事を集め、横浜の電飾取り付け工場を取材。さらには電飾トラックを扱ったNHKのドキュメンタリー番組を見つけ出すと、持ち出し禁止のフィルムを「奥の手」で借り受け、5月中旬には社内試写を行い、岡田から承認を得ていた[11]

ただし、文献によっては「本作出演のため菅原が大型免許取得に丸2か月かかり、1975年7月12日に合格し、7月21日からの『トラック野郎・御意見無用』クランクインに間に合った」との記述があり[12]、そこから逆算すると同年5月前半には映画の製作が決定していたことになり[12]、前述した1975年5月28日放映の『カメラリポート 走る街道美学』に影響を受けた愛川が企画を持ち込んだという経緯では時系列が合わない。実際に映画の製作が公表されたのは、1975年6月10日に神田共立講堂で開催されたダウン・タウン・ブギウギ・バンドのコンサートに菅原の他、登石雋一企画製作部長ら東映重役が下見に訪れた際に[12]、登石から「ダウン・タウンvs.菅原文太で、長距離トラック運転手の映画製作を内定した」と公表したのが最初である[12]。登石たちがコンサートの場に足を運んだのは、当時菅原が「会社の酷使が酷い」[13]実録路線は峠を越した。オレがいま興味があるのはダウン・タウン・ブギウギ・バンド、彼らとの共演映画を会社が認めなければ、他の映画に出ない」などと[12][13]深作欣二笠原和夫の実録トリオで共闘し[13]会社に反撥していたためであった[12][13]。菅原は喜劇と聞かされ出演を迷ったが[3]、以前鈴木監督と組んだ「関東テキヤ一家シリーズ」が喜劇で、「たまには喜劇もいいだろう、続いても二、三作だろう」と考え、出演を承諾した[3]杉作J太郎は鈴木監督の妻・鈴木早苗から「企画が立ち上がると瞬く間に鈴木監督は(製作決定はまだなのに)助監督澤井信一郎シナハン・ロケハンに出掛けた」と聞いたと話している[14]

鈴木は「わたしの映画人生の大恩人、岡田茂はヒットすると自分の企画案のように大絶賛していた」と話している[15]


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