トラック島
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チューク諸島チューク諸島の衛星画像(南が上)。左下の大きな島がウェノ島(春島)、その上がトノアス島(夏島)ほか。中央がウドット島(月曜島)、右がトル島(水曜島)ほか。

地理
場所西太平洋カロリン諸島
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯7度25分 東経151度47分 / 北緯7.417度 東経151.783度 / 7.417; 151.783座標: 北緯7度25分 東経151度47分 / 北緯7.417度 東経151.783度 / 7.417; 151.783
島数248
面積93.07 km2 (35.93 sq mi)
最高標高443 m (1453 ft)
行政
ミクロネシア
チューク州
人口統計
人口3万6158(2010年時点)
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チューク諸島(チュークしょとう、Chuuk Lagoon)は、西太平洋カロリン諸島内に位置する島々。周囲200キロメートルに及ぶ世界最大級の堡礁・チューク環礁(チュークかんしょう、Chuuk Atoll)と、その中に位置する複数の火山島群からなり、248もの島々が存在する。かつてはトラック諸島(Truk Islands、都洛)またはトラック島と呼ばれていた。

現在はミクロネシア連邦チューク州に属し、州都・ウェノなど州の主な機能が集まっている。
歴史トラック島空襲で沈んだ富士川丸。今ではダイビングスポットとして知られる。

チューク環礁に人類が辿り着いたのは西暦の紀元前だと考えられている。具体的なルーツははっきり解っていないが、現在のところ最も有力な説は、ソロモン諸島ビスマルク諸島方面からアウトリガー・カヌーに乗って北上してきた航海者たちがこの島々に住み着いたというものである。

その後スペインの植民地となり、次いでドイツ帝国の植民地を経て、第一次世界大戦終結後の国際連盟決議にて大日本帝国委任統治領となり、1922年南洋庁の支庁が置かれた。

武装化は禁止されていたが、1933年国際連盟脱退、1936年ワシントン海軍軍縮条約失効などにより、加速度的に基地の整備が推進され戦略上の要衝となり、第二次世界大戦の敗戦まで統治を継続した。その後はアメリカによる国連信託統治を経て、1986年のミクロネシア連邦独立に至る。
政治

ミクロネシア連邦の一州を為しているが、同時に古代からの首長制も残存している。首長は現在でも強力な権威を持っており、無視しえない存在である。トル島(水曜島)出身で、日本プロ野球の毎日オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に所属した元投手相沢進1930年 - 2006年)が首長会議の議長を務めていたこともある。こうした経緯からミクロネシア連邦からの独立を求める声もあり、独立を問う住民投票を実施する計画が発表されたこともあるが実施は延期を繰り返しており、2022年現在はミクロネシアからの独立に必要な法案や投票を実施するための組織や仕組みなどの準備が整っておらず、独立が実現する見通しは立っていない[1]

2006年時点での首長は36人。
文化

主要な言語はチューク語である。チューク環礁の離島として扱われるプルワット環礁やプンナップ島には現在も伝統的な航海術(スター・ナヴィゲーション)を伝える航法師たちが存在している。
自然.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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交通チューク国際空港

チューク国際空港 - グアムとの間に定期航空便がある。

成田国際空港からニューギニア航空によりチューク国際空港 を経由してポートモレスビーを結ぶ定期航空便が2018年9月1日より2018年10月6日まで就航した。

2018年10月13日より2019年3月30日まで成田国際空港からポートモレスビー・ジャクソン国際空港直行便に変更となった。水曜便運休による期間限定処置ではあるが、その後の再開は未定である。

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日本との関わり

日本船の南洋貿易をきっかけに、トラック島のサンミ王子が1893年明治26年)に訪日している[2]

1938年昭和13年)当時の人口はトラック支庁内だけで1万7555人を数えており、とくにかつてドイツ帝国の駐在地であり、学校や病院が整備された夏島は1706人の日本人と1263人の現地民が住んでいた[3]

アメリカの植民地、フィリピン太平洋艦隊母港の真珠湾を結ぶライン上に位置するという地理的重要性と、太平洋の荒波から環礁によって隔離された広大な内海という泊地能力の高さから“日本の真珠湾”ないし“太平洋のジブラルタル”とも呼ばれ、日本海軍の一大拠点が建設された。この大環礁を基地化したことで、海軍は予想艦隊決戦海域小笠原沖からマリアナ沖へと前進させるなど、基本戦略に大きな影響を受けた。トラック島に停泊する大和武蔵1943年

1941年(昭和16年)に入ると武装化に拍車がかかり、竹島飛行場は陸上攻撃機の離着陸が可能なように拡大整備され、夏島には水上機基地が設けられた。それらの工事には、日本国内から送られた囚人たちが動員された。島々の各所には要塞砲が設置され、3万トンの重油保管タンク、4000トンの航空燃料保管タンクの設置も進められた。「小松」や「南国寮」などといった有名な海軍料亭の支店もあり、将校の接待や会談にも使用された。

環礁内は航空母艦が全速航行しながら艦上機を発艦させられるほどの広さがあり、散在する島々には日本語の名前が付けられていた。トラック島空襲1944年

太平洋戦争中は、連合艦隊主力が進出、優れた泊地能力を活かし、根拠地として能力を遺憾なく発揮。また、ラバウル航空基地を始めとする南方基地への中継地として航空移動の中心的役割も果たしていたが、大型船が着岸できる岸壁などはなく、ドックなどの船舶修理設備もなかったため(一時的に浮きドックが配置された時期はあった)損傷艦艇の修繕は応急処置にとどまり、本格的な修理は本国(内地)への回航が必要であった。


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