トラステヴェレ (Trastevere) はローマの地名。現行の行政区画としては13番目のリオーネ(it)にあたり、テヴェレ川西岸に位置する[1][2][3]。
トラステヴェレは日本語に訳せば「テヴェレ川の向こう側(岸)」であり、これはローマの中心地からみた場合のテヴェレ川を挟んだ向こう側ということを意味し、「ローマの下町」とも評される[4][5]。
バチカンの南方にあたるとともに、ローマの有名な観光地フォロ・ロマーノ、コロッセオや真実の口からほど近いパラティーノ橋を西に渡り、テヴェレ川を越えた所に位置する。thumb|地域の境界は、北東から東をへて南東まではテヴェレ川の流れが、西と南の境界はアウレリアヌス城壁までが含まれる[6] 。北は隣接地区のボルゴ(en)までで、プリンシペ・アメデオ橋から延びるポルタ・カヴァレッジェーリ通りが隔てる(昔はここに城壁があったが、現在はほぼ失われている)。バチカンは正確にはトラステヴェレの北西に位置する。
観光面でトラステヴェレエリア、トラステヴェレ地区とした場合、南はアウレリアヌス城壁を若干越えたあたりまで含まれ、北は逆に狭い範囲に限定される場合がある。また、テヴェレ川の中州ティベリーナ島はこのリオーネに含まれないが(リパに含まれる[7])、観光エリアとしてトラステヴェレにくくられるケースが見られる。サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ広場(it)(後述の聖堂の前)。夜はライトアップされ、若者が集まるという。中央の噴水はカルロ・フォンターナの作[8] 古い街区ではあるが「庶民的な下町」と形容され、ライブハウスなどもあり若者も多いと言う[9]。南東部のテヴェレ川が蛇行するあたりの「下町」と形容されるエリアは、入り組んだ石畳の路地を持つ繁華街で、夜遅くまで営業するピッツェリアやトラットリアが軒を連ね[4][10]、ローマの「ナイトライフの中心地」とも評される[3]。一方で古い教会も点在する歴史のある街区である[4][11]。 域内北西部にある小高いジャニコロの丘には公園や高級ホテルがあり、そこからはローマの市街地が一望できる[5][12]。丘周辺のモンテ・ヴェルデと呼ばれる地域は高級住宅街を形成している[10]。 紀元前753年 - 509年にはエトゥルスキ人の居住地であったが、王政ローマに征服された。この頃はテヴェレ川を利用した漁業が営まれていた[3]。その後帝国期にはユダヤ人などの異民族の居住地となった[13]。ローマにおける最初のキリスト教共同体も、おそらくこの近辺で形成されたと考えられている[13]。ちなみにキリスト教の伝来に先立つ紀元前38年、この地区において大量の油のような液体が地中から噴出した事件があり、ユダヤ人たちはメシアが到来する前兆であると考えたというが(キリストの誕生を示唆する)、これは後にその場所に建つことになるサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂の縁起伝承といった伝説の類である[13]。410年のローマ劫掠においてはこの一帯も西ゴート族によって被害を受けた[13]。中世になるとこの一帯は雑多な階級の人々が居住し、その流れで21世紀においても漂う下町感が形成されたのではないかという説もある[3]。 ローマでも最古級の教会で221年に創建された教会で、ロマネスク様式建築のサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂が地区の中心付近にある。この付近は入り組んだ路地が多く、観光客向けの飲食店も多い。地区の北側及び西側は丘陵地でジャニコロの丘と呼ばれており、丘の最も高いところは公園とローマ・ラ・サピエンツァ大学の実験植物園(Orto Botanico di Roma 本節ではトラステヴェレに存在する教会の例を挙げる。サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂のファサード[15] サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂 (Basilica di Santa Maria in Trastevere) はその起源を西暦221年に遡り、ローマでも最古級の教会とされる[4]。歴史節の油の噴出したエピソードのあった場所とされ、この出来事を記念する“ FONS OLEI ”の文字盤[13]などが配されている(関連画像参照)。建築様式はロマネスクに属す[13]。
地域特性
歴史
みどころ
ガリバルディ騎馬像
サピエンツァ大学の植物園
パオラの泉
ヴィラ・ファルネジーナ
パラッツォ・コルシーニ
聖堂・教会堂
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂詳細は「サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂」を参照
サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ聖堂