トラジャ族
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この項目では、マレー系先住少数民族「トラジャ族」について説明しています。その他の「トラジャ」については「トラジャ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

トラジャ族トラジャ族の少女達
総人口
約65万人[1]
居住地域
 インドネシアスラウェシ島西スラウェシ州および南スラウェシ州
言語
トラジャ=サダン(Toraja-Sa'dan)、カルンパン(Kalumpang)、ママサ(Mamasa)、タエ(Ta'e)、タロンド(Talondo')、トアラ(Toala')
宗教
プロテスタント:65.15%
カトリック:16.97%
イスラム教:5.99%
トラジャ族系ヒンドゥー教(アルクトドロ教):5.99%[1]
関連する民族
ブギス族マカッサル族[注釈 1]
^ ブギス族とマカッサル族はトラジャ族を取り囲む海岸地域を居住地としている。事実、「トラジャ」はこれら海岸域の民族の言葉で「山地に生きる人々」の意味から導かれている。

トラジャ族の乳児のための墓

トラジャ族(トラジャぞく、Toraja)は、インドネシアスラウェシ島にある南スラウェシ州および西スラウェシ州の山間地帯に住むマレー系先住少数民族。総人口約65万人のうち約45万人はタナ・トラジャ(en)県(en)(「トラジャの地」の意)に居住している[1]。トラジャ族のほとんどはキリスト教を信奉し、イスラム教と「アルク」(aluk‐「道(the way)」の意)と呼ばれる土着のアニミズムが続く。インドネシア政府は、このアニミズム信仰をアルクトドロ教(Aluk To Dolo‐「祖法‐Way of the Ancestors」の意[2])と定義している。彼らは、その特徴的な家屋や壮大な死葬儀式だけでなく、コーヒーブランドにも使われる民族名からも知られている。
概要

トラジャ族は、スラウェシ島中央部および南部の山岳地帯に居住する、トラジャ語系統の言語を話す部族である。境界が明確な村々に分散して住み、その数は20を越えた。それぞれの村は独立しており、時に敵対し戦争を行うこともあった[3]

「トラジャ」という単語はブギス族の言語で「高地の人々」を意味する「ト・リアジャ」(to riaja)を元にしており、オランダ領東インド政府が1909年にこの民族を「トラジャ」と名づけたことが由来となっている[4]。トラジャ族は、複雑で壮大な葬儀の形式や、岩の断崖へ死者を埋葬する習慣、トンコナン(tongkonan)の名で知られる、尖った巨大な屋根を備えた伝統的な家屋の様式、カラフルな木彫り細工などで知られる。彼らの葬儀は、通常規模でも数百人の参列者が出席し、数日間続く社会的に重要な行事とされている。

20世紀以前、トラジャ族は自治権を持ち、アニミズムを信奉し、外界とは隔離されたで生きていた。1900年代初頭、オランダ宣教師がキリスト教の布教目的に村を訪れたのが、外来者との接触を持った最初の例となった。1970年代には、タナ・トラジャ県はインドネシア観光の目玉となり、村は外界へ開かれた。こうして村は、旅行の企画に組み込まれたり、文化人類学者たちの研究材料になるなど、その環境は大きく変化した[5]1990年代までにタナ・トラジャ県観光はピークに達し、トラジャ族の社会は激変した。アルクと呼ばれるアニミズム信仰に基づく共同社会や習慣を基盤とした農村社会から、キリスト教的共同体へと変貌し[6]、伝統の社会構成にも変化が訪れた。
民族の特徴

20世紀に至る前、トラジャ族は自らが固有の民族であるという概念は持っていなかった。オランダの植民地支配とキリスト教伝播がもたらされる以前、トラジャ族は高地にある村内から出ることはほとんど無く、より広い地域を認識していなかった。高地の村々の間では儀式の共通性などが見られたが、方言の多様性や社会階層構造の違い、または儀式を執り行う際の手順の差などにおいて、他のスラウェシ島に住む高地民族とは相違点が確認された。単語としての「トラジャ」は、最初は海岸線の低地に居住する民族が高地民族を指す呼称として用いられたのが最初であり、その意味は「ト」(to)が「人」、「リアジャ」(riaja)が「高地」を指す[4]。結果として、最初に「トラジャ」という言葉が他の「ブギス」や「マカッサル」と言ったスラウェシ島の低地に住む民族の呼び名よりも広く知れたものになった。

トラジャ族は「生」と「死」を同等かつ相対的に捉え、両者には密接な関係が存在すると考えていた。そして、豊穣や生殖には相応の「死」が必要不可欠という概念を持っていた。女性が担う「生」の代表である出産は、上界からを呼び込む行為とされた。相対的に男性は「死」を担い、首刈りが村に豊かさをもたらすために必要な義務のひとつと考えていた。このような死生観は、彼らの壮大な葬送の祭礼にも反映した。[3]

オランダ人宣教師の到来によって居住地の南部からトラジャ族としての民族意識が芽生えた。これはタナ・トラジャを訪問する異邦人が増えるにつれ、民族共通のアイデンティティとして醸成されていった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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