トライデニス
Traidenis
リトアニア大公
在位1270年頃 - 1282年
出生1220年頃
死去1282年
子女ガウデムンダ
父親ロマナスまたはスキルマンタス
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トライデニス(リトアニア語: Traidenis、1220年頃 - 1282年)は、リトアニア大公(在位:1270年頃 - 1282年)で、ドイツ騎士団やハールィチ・ヴォルィーニ大公国に対する不屈の闘争を行った。敵側からは猛獣という綽名を得ている[要出典]。リトアニア大公国の国境線を著しく拡大させたが、送り込まれた暗殺者によって非業の死を遂げた。 トライデニスの出自は正確には知られていない。2、3番目に編集された『ベラルーシ=リトアニア年代記
出自
この時期のトライデニスに関しては余りにも少ない。恐らくはミンダウカス統治下の時代には未だハールィチ・ヴォルィーニ大公国との戦闘に参加しており、年代記もまた、この時の戦闘でトライデニスの兄が戦死したと言及している。1268年以降は父が年老いたことから、その代官であった可能性がある。
大公の地位 、ポラツクの諸侯国と戦うことで積極的な内外政策を行った。ナリシア
1274年にトライデニスはハールィチ・ヴォルィーニ大公レーヴ・ダヌィーロヴィチに属していたドロヒチンにドルジーナ(親兵)を派遣した。都市は占領されて親兵は「住民を多かれ少なかれ殺害した」。この時からトライデニスとレーフは「自ら互いに贈り物を送ることで最大限の友好関係を築いた」。これが真実か否か、そしてこのようなトライデニスの行動をどう説明できるのかが分からない。1275年にレーフは「タタールのモンケ・テムルにリトアニアに対する援助を乞う」ことでドロヒチン占領の報復をしようとした。モンケ・テムルはレーヴのもとにヤグルチンを司令官とする軍を送り、ブリャンスク公ロマン、スモレンスク公グレプ、トゥーロフ及びピンスクの諸侯はリトアニアへの遠征軍の配下に入ることを余儀なくされた。しかしながら、遠征軍は意見の不一致が起きたことからナヴァフルダク周辺に到達しただけで リトアニアを去った。
1277年にトライデニスはディナブルグ(現在のダウガフピルスの領域)を包囲して同都市を征服するために4つの巨大な攻城等とバリスタを使用した。軍勢にはルーシ人、恐らくはポラツク人の弓兵部隊を含んでいた、何故ならばノヴゴロドの白樺文書(ロシア語版)はポラツクに集中した軍勢について伝えているからである。包囲は4週間続いたが陥落しなかった。何故ならばこの時期ハールィチ=タタールによるモシュニノからリトアニア国境への定期的な侵入が始まったからである。このハールィチ=タタールの遠征軍は参加者の意見の不一致から失敗に終わった。
1278年の終わりにトライデニスは兄弟で自身の代官であったシルプティスを軍隊を付けて、マゾフシェ、ポーランド東部と戦っているヨトヴィング人のもとに援軍として派遣し、軍勢はルブリン一帯 まで達した。マゾフシェの殆どが災害を蒙った。マゾフシェ公はドイツ騎士団との関係を絶ったことによりトライデニスとの和平を請うた。ケルナヴェの高地の要塞跡。
だが同年末にはリヴォニア騎士団がリトアニアの奥まで攻め入り、1279年1月にケルナヴェを包囲した。騎士団の年代記はケルナヴェのことを“トライデニスの土地の都市”ないしは“トライデニスの都市”と述べていることから何人かの研究者は、当時ケルナヴァはリトアニア大公国の首都であったか、トライデニスが大公として君臨する都市として統治していたと見做している。