トヨタ自動車のモータースポーツ
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トヨタ自動車 > トヨタ自動車のモータースポーツ 1957年のオーストラリア1周ラリーに出場したクラウンの再現車。このレースへの参加がトヨタのモータースポーツ活動の始まりとされる。 TS050 HYBRIDをイメージして作られた、ハイパーカーの『GRスーパースポーツコンセプト』。現在のトヨタのモータースポーツは市販車との距離を急速に縮めている

トヨタ自動車のモータースポーツでは、トヨタ自動車モータースポーツ活動の歴史について記述する。レクサスサイオンGRなどの同社のブランドや豊田自動織機などトヨタグループの企業の活動に関してもここで述べる。目次

1 概要

2 体制

2.1 現在のトヨタのモータースポーツ部署・子会社

2.2 トヨタと関係の深いチューナー・プライベーターチーム

2.3 過去に関係の深かった企業


3 ラリー・オフロード

3.1 WRC

3.2 ラリーレイド・オフロードレース

3.3 全日本ラリー選手権


4 スポーツカー耐久

4.1 日本グランプリ

4.2 ル・マン挑戦

4.3 北米スポーツカーレース

4.4 ニュルブルクリンク24時間レース


5 フォーミュラカー

6 ツーリングカー / GTカー

7 NASCAR

7.1 その他のアメリカンモータースポーツ


8 e-Motorsports

9 普及活動

10 年表

11 脚注

12 関連項目

13 外部リンク

概要

トヨタ自動車モータースポーツ活動の最大の特徴は、ジャンルを問わない幅広さである。1960年代から今日に至るまで、プロトタイプカーツーリングカーGTラリーフォーミュラカーオフロードストックカーダートオーバルドラッグレースヒルクライムドリフトなどあらゆる四輪競技に競技者あるいは支援者の形で関わり、数多の勝利とタイトルを収めてきた。

世界選手権においてはWRCで3度、WECで1度マニュファクチャラーズタイトルを獲得。また北米ではデイトナ500インディ500デイトナ24時間セブリング12時間パイクスピーク・ヒルクライムバハ1000といった主要レース全てで総合優勝したことがあり、インディカーNASCARIMSAフォーミュラ・ドリフトなどシリーズ戦でもマニュファクチャラーズチャンピオンにも輝いた。

自らもドライバーとしてニュルブルクリンク24時間レースなどに参戦する豊田章男が社長に就任して以降は、トヨタのモータースポーツ活動はTOYOTA GAZOO Racing(TGR)のブランドのもとに「もっといいクルマづくり」「クルマファンづくり」の象徴として市販車開発とも強く関連づけられるようになった。その姿勢の原点として、創業者である豊田喜一郎の言葉が引用されている[1]。これから、乗用車製造を物にせねばならない日本の自動車製造事業にとって、耐久性や性能試験のため、オートレースにおいて、その自動車の性能のありったけを発揮してみて、その優劣を争う所に改良進歩が行われ、モーターファンの興味を沸かすのである…単なる興味本位のレースではなく、日本の乗用車製造事業の発達に、必要欠くべからざるものである。 ? 豊田喜一郎 、『オートレースと国産自動車工業』(1952年3月)
体制

1960年代の体制はトヨタ自動車工業(自工)とトヨタ自動車販売(自販)の2系列に分かれていた。自工では第一回日本グランプリをきっかけに、自工・自販・ダイハツヤマハ発動機日本電装(現デンソー)のレース好きが集まる第7技術部(通称「ナナギ」)が発足[2]。第7技術部は市販車の改造に加えてスポーツプロトタイプを開発し、ワークス格の「チーム・トヨタ」が日本グランプリなどの主要イベントに参戦した。自販はトヨペットサービスセンター特殊開発部(通称「綱島[3]」)がツーリングカーのチューニングを行い、若手ドライバー主体のセミワークス的な活動を行った。

1971年にはワークス活動からクラブチームのTMSC-Rを支援するセミワークスに切り替えたが、オイルショックの影響で1974年に国内のレース活動を休止する。一方で海外では世界ラリー選手権 (WRC) に参戦する「トヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) 」への支援を継続した。

2000年には富士スピードウェイを買収し、約200億円を投じて近代化改修を行い[4]、2007年と2008年にはF1日本グランプリを開催。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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