トヨタ・TS010
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トヨタ・TS010
カテゴリーグループC プロトタイプ
コンストラクタートヨタ(with トムス
デザイナートニー・サウスゲート
後継GT-One TS020
主要諸元[1]
サスペンション(前)ダブルウィッシュボーン, コイルスプリング ダンパー
サスペンション(後)ダブルウィッシュボーン, コイルスプリング ダンパー
全長4,800 mm
全幅1,995 mm
全高1,030 mm
トレッド.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

前: 1,606 mm

後: 1,526 mm

ホイールベース2,752 mm
エンジントヨタ RV10 3.5 L V10 NA ミッドシップ
トランスミッションマニュアル
燃料エルフ
タイヤ

グッドイヤー (1992)

ミシュラン (1993)

主要成績
チーム トヨタ・チーム・トムス
コンストラクターズタイトル1 (1992 JSPC C Class)
ドライバーズタイトル1 (1992 JSPC C Class)
初戦1991 430 km of Autopolis
最終戦1993

出走優勝ポールFラップ
10304

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トヨタ・TS010 (Toyota TS010) は、1991年トヨタが開発したプロトタイプスポーツカー世界選手権 (SWC) やル・マン24時間レースでの総合優勝を狙い、グループCの新規定(カテゴリ1)にあわせて設計された。
マシン概要

車名にはターボエンジン搭載車に用いていたC-Vに代わり、「トヨタ・スポーツ」を意味するTSが付けられた[2]

開発は、エンジン・ギヤボックスをトヨタ、シャシーをTRDが担当した[3][4]。モータースポーツの本場、欧州・イギリスと日本では技術・ノウハウに差があり、エンジン以外は欧州のコンストラクターに委託することも検討されたが、トニー・サウスゲートをコンサルタントに迎えることで補おうとした[3]

エンジンは、当時のSWCのレギュレーションに沿って、当時のF1と同じ3.5 L NAエンジンを開発した[5]。エンジン形式はバンク角72°の5バルブ・V型10気筒[6]で、グラウンドエフェクトを向上させるために傾斜をつけて搭載された[7]。出力は、1990年の一次試作型で約480馬力[8]、1991年スポット参戦時で630馬力[9]、参戦終了後に継続された試験では750馬力を超えた[10]

モノコックはカーボン製で、ラジエーターは先行するメルセデスベンツ・C291ジャガー・XJR-14プジョー・905が側面配置であったのに対し、TS010はトヨタ・88C-V以降のマシンでサイドラジエーター車の開発に苦心した経験からフロントラジエーターで製作された。リヤセクションはトランスミッションをエンジンとデファレンシャルギアの間に配置するレイアウトが採用された[11]

ボディアンダーフロアは、エンジンの左右部分を跳ね上げたトンネルディフューザーを備えるウイングカー構造を有する。リアウイングは、1991年に活躍したジャガー・XJR-14に倣って複葉型を採用した[6]。コンセプトの低ドラッグ・高ダウンフォースに即した開発により、ダウンフォースは200 mph (≒320 km/h) 時に4 tを超えた。

ヘッドライトはスプリント仕様ではフロントラジエーターのエアインテーク部に小型のものを、夜間走行を行う耐久レースではフロントフェンダー部に2灯式のものをそれぞれ装備する。
開発概要

TS010は1991年スポーツカー世界選手権(SWC)への実戦投入を目指したものであり、開発プロジェクトは1989年にスタートした[3]。車体の設計および風洞実験、シャシの製作はTRD童夢、エンジン開発はトヨタ東富士研究所が担当した[12]

初期開発段階において、エンジン開発チームは、重心高を徹底的に下げるために、アンダーフロアがフラットボトムであることを前提に開発を行っていた。それに対しシャシ開発チームは、高ダウンフォースを発生させるために従来のグループCマシン同様のウイングカー構造を持ったマシンを開発したかった。しかし、開発チーム間の異なるマシン構想によって、1990年初頭に完成した車体は、先行開発されていたエンジンが搭載できるだけとなり、結果的にアンダーフロアの整流などは考慮されず、重心も高いマシンだった[13]。この時の車体デザインは最終的にレースに登場したTS010の姿とは似つかない、旧来のトヨタ・88C-Vにまで遡るグループCマシンのイメージを引きずったようなものであった[13]

1990年2月にモータースポーツ部長に着任した齋藤治彦は、この開発状況を収拾するため、1990年5月の世界スポーツプロトタイプカー選手権 (WSPC) シルバーストン戦を視察中に偶然知り合ったトニー・サウスゲートにTS010開発のアドバイザー就任を依頼し、同時にスポーツカー世界選手権 (SWC) への参戦を1年遅らせ1992年からとすることで、エンジン、シャシ共に一から再設計させた[14]。再設計されたシャシは90年夏に行われた風洞実験において、揚抗比がそれまでのターボエンジン搭載のグループCカーでは4に満たなかったものを、5.8に達したといい、ドラッグを抑えながら多くのダウンフォースを獲得できる目途がたった[15]。一方、エンジンはシャシよりも先に完成し、91年シーズン初頭からトヨタ・89C-Vをテストベッドとして実走テストが開始された。

こうして1991年夏にTS010は完成し、同年7月のシェイクダウン後はデビューに向けてテストが重ねられた[16]。またタイヤについては、従来から馴染みの深かったブリヂストンに替えて、「世界中のサーキットで実績を積んでいる」という観点から、グッドイヤーがチョイスされた[14]

このように従来のグループCマシンからの脱却を目指して開発されたTS010だが、同時期に登場したジャガー・XJR-14が、コンパクトなコスワースV8エンジンを搭載し、ラジエーターを車体側面配置にすることでヨーモーメントを低減、車体全てを軽量コンパクトに設計したのに対し、TS010は従来のグループCマシン同様、ラジエーターがフロント配置になっている等、車両パッケージは少々古いものであった[注釈 1][注釈 2]

また、XJR-14は、スプリントレースを主眼においたのに対し、TS010は耐久レースも考慮した事から、ドアは従来のグループCマシン同様に乗降性に優れたコンベンショナルなガルウィングドアとし、後輪部分にジャガー・XJR-12等と同様のスパッツを採用している。

このように、ややコンサバティブに設計されたTS010は、1991年8月に初めてメディアに公開された際、「細部の造形が何とも荒いし、デザインセンスも素人っぽい」と評論家の両角岳彦にエクステリアデザインを酷評された[6]ものの、車両としての完成度は当初からそれなりに高く、「トヨタ製グループCマシンの集大成」と言われている[誰?]。

だが、92年SWCで好敵手となったプジョー・905は、シーズン中にEVO2を投入する等、常に空力性能を向上させ、さらに予選用エンジンを用意したのに対して、TS010は特に目立った改良は行われなかったため、次第に速さの面で劣勢となっていく[注釈 3]
成績2008年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードで走行するTS010

TS010を使用したレースプロジェクトはトムスGBがトヨタからTS010を借り受ける形で行われた。

TS010は1991年、SWC最終戦のオートポリスに特例[注釈 4]として参戦[21]し、予選5位・決勝はトップから3周遅れの6位という結果を残した[22]

1992年よりSWCに正式に全戦参戦し、第1戦モンツァ小河等ジェフ・リース組のドライブにより初優勝を飾る[23]。続く第2戦シルバーストンでは2位に大差をつけてレースを進めていたが電気系統のトラブルでリタイアした[23]

そして、1勝1敗で迎えたル・マン24時間レースでは、レース前半がウェットコンディションによる戦いとなり、グッドイヤーレインタイヤがまったくグリップしない状態に対し、ミシュランを履くプジョー・905やマツダ・MX-R01にみるみるうちに離されてしまった[24]。雨が上がった時点では、プジョーと相当なタイム差がついてしまい、最上位の33号車で4位であった。そこで、どれだけエンジンが持つか全くの未知数であったが、予選用ガソリンを使用し、数十馬力出力を上げることで1周あたり7秒のタイムアップを図り、プジョーを猛追した[25][20]

終盤に33号車は2位までポジションアップしたが、エンジンのシリンダーヘッドに亀裂が入り、一気筒から冷却水が漏れてオーバーヒートを起こしてしまった[26][17]。一度はピットインして冷却水を補充したものの、すぐにオーバーヒートは再発したため、トップ追撃を断念、再度ピットインすればエンジンが始動する保障はないため、33号車はピットに戻らないままペースを落として周回を重ねた結果、総合2位をキープすることに成功した[27][20]。なお、3位のプジョーとはわずか1周差であり、さらにゴール後の33号車には冷却水がほとんどない状態であった。

このエンジントラブルはル・マン仕様のエンジン開発中にバルブ折損トラブルが発生した事に端を発する[28]。問題が見付かったのがル・マン本選の2か月前であり、対策改良品を実戦投入するには手遅れなタイミングだった[29]。シリンダーヘッドの製造品質が原因と疑われたため[28][注釈 5]、実走にて同種の問題が発生していないスプリント仕様の中古シリンダーヘッドを使いまわして対処する事となった[26][29]。ル・マンにてオーバーヒートを起こしたエンジンはSWCモンツァ戦で使われたシリンダーヘッドであったが、ヘッドの稼働耐久時間は30時間として設計されており、クラックが入ったタイミングは皮肉にもこの想定時間を丁度使い切ったところだった[27]

ウェットタイヤの性能差によって半ば勝敗が決したレースだったが、雨天のコンディションが駆動系への負担を抑えていたのも事実であり、当時のチーム監督であった齋藤治彦は、「雨が降らなかったら勝てたかもしれないが、ハイペースがたたって持たなかったかもしれない」と回想している[30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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