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トヨタ・2000GT
MF10型
前期型
(輸出仕様・MF10L)
前期型 リア
(国内仕様・MF10)
概要
販売期間1967年 - 1970年
デザイン野崎喩
ボディ
乗車定員2名
ボディタイプ3ドア ファストバッククーペ
駆動方式FR
パワートレイン
エンジン
MF10型 1,988 cc 3M型直列6気筒 DOHCMF12L型 2,253 cc 2M-B型直列6気筒 SOHC
最高出力MF10型 150 ps/6,600 rpm , MF12L型 140 PS/5,800 rpm
最大トルクMF10型 18.0 kgf・m/5,000 rpm , MF12L型 20.5 kg-m/3,800 rpm
変速機2000GT専用5速MT(他に3速ATの設定あり)
前4輪ダブルウィッシュボーン(コイルスプリング)
後4輪ダブルウィッシュボーン(コイルスプリング)
車両寸法
ホイールベース2,330 mm
全長4,175 mm
全幅1,600 mm
全高1,160 mm
車両重量1,120 kg
その他
シャーシX型バックボーンフレーム
生産台数337台[1]
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2000GT(にせんジーティー)は、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)とヤマハ発動機が共同開発したスポーツカーである。ヤマハ発動機に生産委託され、1967年から1970年までトヨタブランドで販売された。型式は「MF10」と「MF10L」。 トヨタのイメージリーダーを担う車種として、国際的に通用するスポーツカーを目指し開発された。DOHCエンジン、5段フルシンクロメッシュ・トランスミッション、4輪ディスクブレーキ、ラック・アンド・ピニオン式ステアリング、リトラクタブル・ヘッドライトは、トヨタではこの車から本格採用された。これらは1980年代以降、量産乗用車において珍しくない装備となっているが、1960年代中期においてこれらをすべて装備した本車は、当時としては最上級の高性能車であった。 これらの先進的装備と生産台数の少なさから「国産車初のスーパーカー」と呼ばれることがあり[2]、生産終了から半世紀以上が経過した現在も旧車の中では抜群の知名度を誇っている。中古車市場では多くの場合プレミア価格が付いて高額で取引され、新車時に日本国外に輸出された2000GTを日本に逆輸入する例もある。2013年にはクラシックカーを専門に取り扱うRM_auctions社が行うオークションで、日本車としては最高値である115万5,000ドル(約1億1,800万円)で落札された。 また廉価版として、2,300 ccのSOHCエンジンを搭載したモデル(後述)が北米市場向けに計画されたが、諸事情により9台が製造されたのみで市販には至らず、発表されている生産台数の中には含まれていない(型式は「MF12L」)。 1960年代前半の日本におけるモータリゼーション勃興期、トヨタにとって最大の競合メーカーである日産自動車はフェアレディ、また四輪車メーカーとしては新興の本田技研工業はSシリーズをそれぞれ市場に送り出し、いずれも軽快なオープンボディのスポーツカーとして日本国内外で人気を集めた。これらのスポーツカーは、レースなどでもメーカーの技術力をアピールし、メーカーのイメージアップに大きく貢献する存在だった。 一方のトヨタは、日産自動車と並んで日本を代表する最大手自動車メーカーでありながら、1960年代前半にはスポーツカーを生産していなかった。社外の企業である久野自動車により、クラウンのシャシを利用して浜素紀のデザインした個性的な4座オープンボディを架装したスペシャルティカーの試作などは行われていたが、そのシャシやエンジンなどはスポーツカーと呼ぶには非常に未熟なもので世に出ることはなく、自社のイメージリーダーとなるようなスポーツモデルが存在していなかった。 トヨタのスポーツカーには、1962年から大衆車パブリカのコンポーネンツを用いて系列会社の関東自動車工業(関東自工)が試作を進めていた「パブリカ・スポーツ」があり、1962年以降の原型デザイン公開を経て、「スポーツ800」の名で1965年から市販された。しかし同車種は1,000 cc未満のミニスポーツカーであり、2,000 cc超の乗用車を生産する自動車メーカーであるトヨタのイメージリーダーとしては力不足であった。このため、輸出市場やレースフィールドで通用する性能を持った、より大型の本格的なスポーツカー開発が考えられるようになった。 当初トヨタはスポーツ800と同じく、関東自工に生産委託する予定でこの計画をスタートした。1964年5月頃から開発体制の構築が進められ、プロジェクトリーダーの河野二郎、デザイン担当の野崎喩、エンジン担当の高木英匡、シャシと全体レイアウト担当の山崎進一、河野のアシスタント兼運転手の細谷四方洋、実務担当の松田栄三の6名が招集された。開発コードは「280A」と名付けられ、同年9月から基礎研究、11月にはシャシやスタイリングの基本設計が順調に進められた。280Aは美しいスタイリングに6気筒DOHCエンジン、4輪ディスクブレーキなどの当時の先進メカニズムを盛り込んだグランドツーリングカーとして構想され、12月上旬には早くも強度計算まで完了した設計図が完成した。 ヤマハ発動機では1959年に『ヤマハ技術研究所』を設立した。その中で安川力を主任とする研究室が四輪車の試作を行っており、世界初の全アルミ製エンジンを製作するなど意欲的にスポーツカー開発に挑戦した。しかし、開発に莫大な金を費やしたにもかかわらず四輪車の発売には至らず、さらに当時発売していたスクーターのクレーム対応に追われるなどヤマハの経営難も重なり、1962年に技術研究所と安川研究室は解散させられた[3]。 しかし、ヤマハの川上源一社長はなんとか安川たちの熱意に応えるべく、銀行を仲介して日産自動車との提携による四輪開発に持ち込んだ。こうして日産主導の下に、再び安川研究室は初代日産・シルビアの原型ともいえるコンセプトカー「ダットサン クーペ1500」や、高性能スポーツカー『A550X』に携わったが[4][注釈 1]、日産側の事情により1964年(昭和39年)半ばに頓挫した。 トヨタは280Aのような前例のない高性能スポーツカーを、関東自工で生産できなさそうなことに悩みを抱えていた。ヤマハの川上源一はA550X開発中止に困っており、トヨタ自動車専務の豊田英二に相談したところ、ここに両社のニーズが合致した。 1964年(昭和39年)12月28日にトヨタ側の開発メンバーがヤマハに赴き、技術提携を結んだ。このときA550X試作車を視察しているが、前述の通り2000GTのシャーシの基本設計は各種計算含めすでに完成しており、具体的な影響は結果として見られない。 翌1965年(昭和40年)1月より、前述のトヨタ側の開発陣がヤマハ発動機に出張しながら、ヤマハの安川研究室の十数名とともに2000GTの開発プロジェクトを推進していった。開発プロジェクトは順調に進み、同年4月末に最終設計図が完成。計画開始からわずか11か月後の8月に試作車の第1号車が完成し、トヨタに送られた。 2000GTの高性能エンジンや良質な内装には、ヤマハ発動機のエンジン開発技術や日本楽器の木工技術が大いに役立てられている。ヤマハ発動機は戦時中に航空機用の可変ピッチプロペラの装置を製造していた技術および設備を活用するため、1950年代中期からモーターサイクル業界に参入して成功、高性能エンジン開発では10年近い技術蓄積を重ねていた。また1950年代後半以降のモーターサイクル業界では、四輪車に先駆けてSOHCおよびDOHCを採用した高効率なエンジンの導入や研究が進んでいた。このような素地から、ヤマハはトヨタ・クラウン用のM型直列6気筒エンジンにDOHCヘッドを備えたエンジンを製作することができた。またヤマハ発動機は楽器メーカー(日本楽器製造)から分立した企業で、楽器の材料となる良質木材の扱いに長けていたことを活かし、インパネとステアリング・ホイール(ともに前期型はウォールナット、後期型はローズウッド製)の材料供給および加工までも担当した。 一方、それまでのヤマハの四輪自動車製作はYX30を2台試作するに留まっており、1台の自動車としてまとめ上げるノウハウはトヨタが引き受けた。またクラッチ、トランスミッション、ディファレンシャルギア、ドライブシャフトなどの駆動系に関してもトヨタ側が設計、供給している。わずかな期間で1台のスポーツカーに仕立て上げられたのは、トヨタとヤマハの協力がスムーズに進んだためとされる。 最終的な製品化を担当したのはトヨタの三田部力(主査付)や松田栄三[5]。 2000GTはその成立過程での2社共同開発体制という特異性に加え、生産についてもヤマハおよびその系列企業に委託されたこともあり、「果たしてトヨタが開発した自動車と捉えるべきか」という疑問が、愛好者、評論家の一部によって呈されている。自動車関係の書籍や雑誌では古くから、さらに近年では個人によるブログ上などでも「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発、生産したスポーツカーを買い取っていたに過ぎない」「金だけ出してトヨタのバッジをつけた」「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」とする辛辣な評、また、「日産・2000GTの試作車はトヨタ・2000GTの原型」と断じる極端な説までもがごく一部で流布されている[注釈 2]。 しかし実際には前述の通り、ヤマハとの技術提携が結ばれる4か月前からトヨタは開発に着手している。またヤマハ発動機側は2000GTの開発についての公式な言及を、ホームページ上において「トヨタ2000GTの全体レイアウト計画やデザイン、基本設計などはトヨタ側でなされ、ヤマハは同社の指導のもとで主にエンジンの高性能化と車体、シャシーの細部設計を担当した また「エンジンはヤマハ製」というのも正確ではなく、トヨタ・クラウン用のM型直列6気筒4ストロークSOHCエンジンをベースに、ヤマハが生産したDOHCヘッドを装備したものになっている[注釈 4][6]。これは後年のR型・2T型・G型・3S型など多数のDOHCエンジンにも採用された手法である。当時ヤマハはオートバイ・船外機含め4ストロークエンジンを生産した経験はやはりYX30の4気筒1600ccエンジンだけだったと見られる[注釈 5]。 逆に「ヤマハは2輪車メーカーであり4輪車の量産をしたことがなく、しかも2ストロークがメインで4ストロークの経験が少なかったので、2000GTを開発できる技術力がないはず。2000GTはトヨタが主体になって開発製造したに違いない」という意見もあるが、ヤマハ側の責任者である安川力は「2000GTはトヨタが企画し、基本的な図面はトヨタからもらい、全体のレイアウトにヤマハの考えは入っていない。でもその先の開発では、ヤマハ側の経験や技術も盛り込まれている。ヤマハがYX-30を試作し、日産との仕事も経験してきた経緯が底流にある」、「新しい事業を成功させる要因は、経験や技術的な積み重ねよりも、夢や情熱。極端に言うと、新しいものの開発には、むしろ経験や積み重ねがないほうがいい。2輪メーカーなのに4輪が作れるかとか、2ストロークと4ストロークは違うとか、そんなことはまったく問題にならない」と語っている。実際、ヤマハは本来は楽器メーカーでありながら、わずか1年ほどの短期間で初の2輪車(ヤマハ・YA-1)の開発と市販車の量産を行っている[7]。 トヨタの高木英匡は「もしもヤマハが名乗り出てくれなかったら、2000GTは実現が難しかっただろう。4輪車を造り慣れている企業(トヨタのグループ企業など)だったら、こんな特殊な車(の開発や製造)は無理、と断られたかも知れない。ヤマハはいい意味で4輪に関し白紙だったから、喜んで受けてくれたのかも知れない。ヤマハはスポーツカー(日産2000GT)のために優秀な人材を集めていただろうから技術的なポテンシャルも高かったと思う」と述べている[5]。 2000GTのレース仕様やトヨタ・7の開発や製作などに当たったヤマハの田中俊二は「ヤマハ(発動機)はトヨタに比べ歴史が浅くトヨタに教えを求めるところが多かった。一方、トヨタは一般的な量産車の開発製造にたけているが、DOHCの高性能車はヤマハにも経験があった。トヨタもヤマハもいろいろなことを共に学んだといえるのではないか。未知の領域へのチャレンジだったから」と述べている[8]。トヨタの高木英匡は「田中さんのおっしゃるとおりでしょうね」と述べている[5]。 細谷四方洋は「ヤマハの協力がなかったら2000GTは誕生しなかったでしょう」とヤマハの技術力を高く評価している[9]。 またヤマハはトヨタ(顧客)から業務を委託された側であり、トヨタ・モータースポーツクラブ(TMSC)会長を務めた多賀弘明は「2000GT関係者の会に出席するヤマハ関係者は、トヨタの手前、どこか遠慮がちにも感じる」と述べている[10]。 市販車の本格生産は、ヤマハ発動機に委託された。ただし高品質を維持するため、ワイパーのきしみや水漏れのようなものはトヨタ側の基準で厳しくチェックされた。
概要
開発までの経緯
トヨタ側の事情
ヤマハ発動機側の事情ヤマハ本社にて展示されている2000GT、3台しか生産されなかったゴールド塗装車のうちの1台。シャシー番号10132
共同開発
「開発をヤマハに丸投げ」説について
生産・販売
生産
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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