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初代 パブリカ800デラックス
(UP20D最終型)
概要
別名新進・パブリカ(初代・韓国仕様)
製造国 日本
韓国
販売期間1961年 - 1988年(全2世代)
ボディ
ボディタイプ2ドアセダン
2ドアオープンクーペ
3ドアライトバン
2ドアピックアップ
駆動方式FR
系譜
後継トヨタ・スターレット
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パブリカ(Publica)は、トヨタ自動車(旧・トヨタ自動車工業)が1961年から1988年まで生産・(旧・トヨタ自動車販売)販売した小型乗用車、および小型貨物自動車である[注釈 1]。 1950年代の国民車構想の影響を受けて開発されたトヨタ初の大衆車で、長年にわたって同社の生産、販売する最小クラスの車種として位置づけられた[注釈 2]。後のスターレット→ヴィッツ→ヤリスへとつながる、トヨタにおけるエントリー系コンパクトカーの源流である。 日本製の大衆車として初の水平対向エンジン搭載車であり、この水平対向エンジンはのちにミニエースやスポーツ800への搭載を経て、晩年にはトヨタ・ライトバス→初代コースター用の車載用クーラー専用サブエンジンとして受け継がれた。 モータースポーツ界でも活躍しており、1963年の第1回日本グランプリでクラス優勝を飾っている。 パブリカの商品企画は、1954年5月に当時の技術担当専務であった豊田英二から500 - 600cc級の前輪駆動大衆車の開発提案が出されたことに始まった。当時タクシー用に用いられていた小型車よりも1クラス下の、オーナードライバー向けの大衆車を構想したコンセプトである。それまでのトヨタにおける最小クラスである1,000cc級の乗用車(トヨタでは当時1,500cc車への切り替えで生産が途絶えていたが、1957年に初代トヨペット・コロナが再発売されている)よりもさらに小型の自動車は、当時のヨーロッパでは多数出現しており、トヨタをはじめとした日本のメーカーを刺激する存在であった。初代クラウンの開発が完了した直後の1955年4月から、小型トラック部門の主査であった薮田東三を主査としたチームで開発が着手された。 その直後、1955年5月18日に当時の通商産業省(現・経済産業省)が「国民車育成要綱案(国民車構想)」を計画しているという報道が一部の新聞で掲載[注釈 3]された。この構想では、一定の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するというものであった。要件は以下の通りである。 大学教授などの助言も受けて自動車好きの若手官僚が立案した企画であったが、当時の主要自動車メーカー側も検討はしたものの、同年9月には日本自動車工業会(自工会)の統一見解で不可能とする回答が出された。
概要
開発の経緯
国民車構想
最高速度100 km/h以上であること。
乗車定員4名、または2名と100 kg以上の貨物が積めること。
60 km/hで平坦な道路を走行中の燃費が、30 km/L以上であること。
大がかりな修理をしなくても、10万 km以上走れること。
月産2,000台の場合、最終販売価格は1台25万円以下であること。
性能と価格から勘案されるエンジンの排気量は350 - 500 cc、車重は400 kg以下。