トム・ミックス
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トム・ミックス
Tom Mix
トム・ミックス(1925年)
生誕Thomas Hezikiah Mix[1]
(1880-01-06) 1880年1月6日
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ミックスラン(英語版)
死没1940年10月12日(1940-10-12)(60歳)
アメリカ合衆国 アリゾナ州フローレンス(英語版)
別名Thomas Edwin Mix
職業俳優
活動期間1909年 - 1935年
配偶者

Grace I. Allin
(m. 1902; ann. 1903)

Kitty Jewel Perinne
(m. 1905; div. 1906)

Olive Stokes(英語版)
(m. 1909; div. 1917)

Victoria Forde(英語版)
(m. 1918; div. 1932)

Mabel Hubbell Ward
(m. 1932)

子供2人(ルース(英語版)ほか)
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トーマス・エドウィン・ミックス(Thomas Edwin Mix、1880年1月6日 - 1940年10月12日)は、アメリカ合衆国の映画俳優である。1909年から1935年にかけて、初期の西部劇映画の多くに出演した。生涯で291本の映画に出演し、9本のトーキーを除く全てがサイレント映画だった。ハリウッド初の西部劇スターであり、映画の初期に登場した「西部劇」というジャンルの定義を確立させた[1]
若年期

ミックスは1880年1月6日に、ペンシルベニア州ステートカレッジから北に約100キロメートルの所にあるミックスラン(英語版)で生まれた。出生時のミドルネームはヘジキア(Hezikiah)だった[1]。父エドウィン・エリアス・ミックスは、裕福な材木商の家の馬小屋の管理人だった。ミックスは生地の近くのドゥボイズで育ち、父から馬の乗り方を教わり、馬への愛情を持つようになった[2]。学校を卒業した後は地元の農場で働いていた。

米西戦争中の1898年4月、ミックスはアメリカ陸軍に入隊し、この際にミドルネームをエドウィンに改めた。エドウィンが所属した部隊はアメリカ国外に出ることはなかった。ミックスは1902年7月18日にグレース・I・アリン(Grace I. Allin)と結婚したが、結婚に伴う長期休暇の後、部隊に帰還しなかった。同年11月4日に無届離隊(AWOL)となったが、軍法会議にはかけられなかった。グレースとの結婚は1年後に破棄された。1905年にキティ・ジュエル・ペリンヌ(Kitty Jewel Perinne)と結婚したが、1年後に離婚した。1909年1月10日にノースダコタ州ミドーラ(英語版)でオリーヴ・ストークス(英語版)(Olive Stokes)と結婚し、1912年7月13日に娘のルース・ミックス(英語版)(Ruth Mix)が生まれた。

1905年、ミックスはセス・ブロック(英語版)率いる50人の騎手の一員としてセオドア・ルーズベルト2回目の大統領就任式のパレードに参加した。50人の大半は元第1合衆国義勇騎兵隊(ラフライダーズ)であり、ミックスはラフライダーではなかったが、後にハリウッドの宣伝担当者たちは、ミックスもラフライダーだったと喧伝した。

ミックスはオクラホマ州ガスリー(英語版)に転居し、ここでバーテンダーなど様々な仕事をした。ミックスは、約4万ヘクタールというアメリカ最大級の牧場であるミラーブラザーズ第101牧場(英語版)で働いた。この牧場でミックスは、ワイルド・ウエスト・ショーの巡回公演に参加していた。ミックスは乗馬技術や射撃技術に優れ、1909年と1910年の全米乗馬・ローピング大会で優勝した[3]

ミックスはフリーメイソンの会員だった[4][5][6]
映画界でのキャリア
1910年代"Mr. Logan, U.S.A."(1919年、邦題『米人ローガン氏』)に出演するミックス

1910年、ワイルド・ウエスト・ショーを運営していたウィル・A・ディッキーは、セリグ・ポリスコープ(英語版)に資材や演者を提供する契約を結んだ。ディッキーはミラーブラザーズ第101牧場のショーを見たことがあり、ミックスに映画への出演を持ちかけた。ミックスはミズーリ州フレミントン(英語版)で行われていたセリグ社の映画撮影にすぐに加わった[7]。ミックスの映画初出演は1909年10月21日公開の短編映画"The Cowboy Millionaire"で、役名のない脇役での出演だった。1910年には、短編ドキュメンタリー映画"Ranch Life in the Great Southwest"に本人役で出演し、牛追いの技を披露した。セリグ社に所属する映画監督のオーティス・ターナーは、ミックスに映画俳優としての仕事を続けさせたいと考えたが、ミックス自身は俳優の仕事にはそれほど興味を示さず、ミラーブラザーズ第101牧場に一旦戻った[8]

1911年の春にセリグ社に戻ったものの[8]、1912年初頭にセリグ社を退社し、カナダ・アルバータ州ロデオイベントのカルガリー・スタンピードを立ち上げた。その後、「バッファロー牧場ワイルド・ウェスト・ショー」としてカナダ各地を巡回した。その後、デューイー(英語版)の夜間保安官を短期間務めた[9]

1913年1月、セリグ社からのオファーを受けて俳優に復帰し、俳優兼監督のウィリアム・ダンカン(英語版)の作品に出演した。この間、ダンカンからの要請で、ミックスは一部の作品の脚本を書いた[10]。1914年からは、セリグ社はミックスにリソースを与え、ミックスが脚本・監督・主演を務める映画の撮影を許可した[11]

1915年から、第一次世界大戦勃発によりアメリカ国外での映画の公開ができなくなったため、セリグ社は財政難となり、撮影スケジュールの短縮などのコスト削減を図り始めた[12]。ミックスは別の映画会社との契約を模索し、1916年末にフォックス・フィルムと契約を結んだ[13]。ミックスのセリグ社での最後の作品は1917年初頭に公開された。

セリグ社でミックスはヴィクトリア・フォード(英語版)と何本かの映画で共演し、2人は恋に落ちた。ミックスは1917年にオリーヴと離婚し、1918年にヴィクトリアと結婚した。1922年2月にヴィクトリアとの間に娘のトマシーナ(トミー)・ミックス(Thomasina (Tommie) Mix)が生まれた[9]"Sky High"(邦題『天空万里』)でエヴァ・ノヴァク(英語版)と共演するミックス
1920年代ミックス(1925年)

ミックスは1920年代に160本以上のカウボーイ映画を製作した。セリグ社での作品がドキュメンタリー指向だったのに対し、フォックス社に移ってからのこれらの作品はアクション指向の脚本だった。ヒーロー悪役が明確に定義され、格好の良いカウボーイが窮地を救うというのが定番だった。何百万人というアメリカの子供たちが、土曜日の午後にミックスの映画を見て育った。ミックスの愛馬である「ワンダーホース(英語版)」トニーも有名になった。ミックスはスタントを自分で行い、たびたび怪我をした。

1913年、ミックスはアリゾナ州プレスコットの牧場を購入して「バー・サークルA牧場」と名付け、一家でそこに引っ越した。ミックスが出演する映画のいくつかは、ミックスの自宅で撮影された。ミックスは、プレスコットで開催される「世界最古のロデオ」と称されるプレスコット・フロンティア・デイズ・ロデオで成功を収めた[14]。1920年代にはブルライディング・コンテストで優勝した。

フォックス社に移籍した当初の報酬は週350ドルだったが、移籍してからミックスの人気は急上昇し、最終的には週給17,000ドルまで上昇した[15]。ゴシップ記者のルエラ・パーソンズは、ミックスは自宅の屋根に電飾で自身のイニシャルを描いていたと書いている[16]。ミックスの演技は、自分で行うアクションスタント、乗馬、カウボーイの衣装、ショーマンシップをフルに使ったリアルなものだった。ミックスはロサンゼルスのエデンデール(英語版)に約5ヘクタールの撮影セットを建設し、「ミックスヴィル」(Mixville)と名付けた。ミックスヴィルには、西部劇の撮影に必要な建物が一通り揃っており、「埃っぽい通りや手すり、酒場、牢屋、銀行、医院、測量士事務所、西部開拓時代初期の典型的な簡素な家を備えた、完全なフロンティアの街」と評された[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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