トム・シーバー
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トム・シーバー
Tom Seaver
ニューヨーク・メッツでの現役時代
(1971年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州フレズノ
生年月日 (1944-11-17) 1944年11月17日
没年月日 (2020-08-31) 2020年8月31日(75歳没)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
206 lb =約93.4 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1966年
初出場1967年4月13日
最終出場1986年9月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


南カリフォルニア大学

ニューヨーク・メッツ (1967 - 1977)

シンシナティ・レッズ (1977 - 1982)

ニューヨーク・メッツ (1983)

シカゴ・ホワイトソックス (1984 - 1986)

ボストン・レッドソックス (1986)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1992年
得票率98.84%
選出方法BBWAA選出
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トム・シーバー(英語: Tom Seaver, 本名:ジョージ・トーマス・シーバー(George Thomas Seaver, 1944年11月17日 - 2020年8月31日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州フレズノ出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。愛称は「"トム・トリフィック"("Tom Terrific")」、「"フランチャイズ"("Franchise")」。

MLBタイ記録及びギネス世界記録である10打者連続奪三振達成者[1]
経歴
メッツ時代

1965年のMLBドラフト10巡目(全体190位)でロサンゼルス・ドジャースから指名を受けるが[2]、契約せず。1966年1月のドラフトでアトランタ・ブレーブスから指名を受けるが、在学していた南カリフォルニア大学のルールで無効となった。結果としてブレーブスとは契約できず、大学からは出場停止処分となって身分が宙に浮く形となってしまい、ブレーブスが支払う予定だった契約金が保障されることを条件とした救済の為の特別ドラフトが行われ、抽選の結果交渉権を獲得したニューヨーク・メッツと4月3日に契約[3]

1967年4月13日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャーデビュー。新人ながらオールスターゲームに選出され、9回に登板しセーブを記録。最終的に16勝13敗、防御率2.76を記録し、リーグ最下位に終わったチームでひとり気を吐いた。オフには最下位チームからは史上初となる新人王を受賞。

1968年開幕投手を務める。4月15日のヒューストン・アストロズ戦では10回を2安打無失点と好投しながら勝敗付かず[4][5]。その後も好投しながら援護がなく、5月まで防御率1.91ながら2勝に留まるが、6月に5勝を挙げる。最終的に16勝12敗、防御率2.20、205奪三振の成績を残し、チームは球団史上最高の勝率.451を記録した。

1969年はエクスパンションによって4球団が誕生し、東西2地区制となった。7月9日のシカゴ・カブス戦で9回一死までパーフェクトに抑え、1安打無四球の「準完全試合」で完封勝利を挙げる[6]など、前半戦で8連勝を含む14勝を記録。後半戦は防御率1.67、8月9日から3完封を含む10連勝。25勝7敗、防御率2.21、208奪三振を記録し、最多勝利のタイトルを獲得。チームは100勝を挙げて地区優勝を果たす。ブレーブスとのナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(NLCS)では第1戦に先発し、7回5失点ながら勝利投手となり、チームは3連勝で球団創設以来初のリーグ優勝。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは第1戦に先発するが5回4失点で敗戦投手。第4戦では9回に同点とされるも延長10回を1失点完投で王手をかける。第5戦も勝利し4勝1敗でワールドチャンピオンに輝いた。同年のメッツの躍進は「ミラクルメッツ」と呼ばれた。オフに初のサイ・ヤング賞を受賞し、MVPの投票ではウィリー・マッコビーと22ポイント差の2位だった。

1970年4月22日には試合前に前年のサイ・ヤング賞の表彰式が行われた。試合ではサンディエゴ・パドレス相手に、6回二死からMLB新記録の10打者連続奪三振を達成すると同時に、スティーブ・カールトンが持つ当時のMLB記録に並ぶ1試合19奪三振を記録した[7]。10者連続奪三振に関してはギネス世界記録に認定されている[1]。開幕から6連勝、6月9日からは9連勝するなど前半戦は14勝5敗、防御率2.40、178奪三振の成績で、オールスターゲームでは先発投手を務めた。後半戦は4勝に留まるが、18勝12敗、防御率2.82、283奪三振を記録。最終的に最優秀防御率最多奪三振の二冠を獲得。

1971年は20勝10敗、防御率1.76、キャリアハイの289奪三振を記録し、2年連続で最優秀防御率・最多奪三振の二冠を獲得する。

1972年は21勝12敗、防御率2.92の成績。1974年

1973年は19勝10敗、防御率2.08、251奪三振、リーグトップの18完投を記録し、3度目の最優秀防御率・最多奪三振の二冠を獲得。チームは4年ぶりの地区優勝を果たす。シンシナティ・レッズとのNLCSでは第1戦に先発し、13奪三振で無四球完投の好投を見せたが、9回にジョニー・ベンチにサヨナラ本塁打を浴びて敗戦投手。2勝2敗のタイで迎えた最終第5戦は9回途中2失点の好投で勝利投手となり、リーグ優勝に貢献。オークランド・アスレティックスとのワールドシリーズでは第3戦で8回12奪三振の好投も勝敗付かず。第6戦でも7回2失点と好投するが援護がなく敗戦投手となり、チームは3勝4敗で敗退した。オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞した。

1974年は開幕から調子が上がらず、11勝11敗、防御率3.20とやや不本意な成績に終わる。オフの日米野球でメッツの一員として訪日した。

1975年は復活を果たし、前半戦で8連勝を含む13勝を挙げ、2年ぶりにオールスターゲームに選出される。後半戦でも7連勝するなど最終的に22勝9敗、防御率2.38、243奪三振を記録し、最多勝利・最優秀防御率の二冠を獲得した。オフには3度目のサイ・ヤング賞を受賞した。

1976年は14勝11敗、MLB記録の9年連続200奪三振となる235奪三振で5度目の最多奪三振を獲得した。
レッズ時代

1977年6月15日(当時のシーズン途中のトレード期限)に前年の新人王パット・ザクリーら4選手との交換トレードでレッズに移籍。

移籍後は14勝を挙げ、シーズン通算で21勝6敗、防御率2.58、リーグ最多の7完封を記録。奪三振は196で連続200奪三振は9年で途切れた。

1978年6月16日のセントルイス・カージナルス戦でノーヒットノーランを達成。


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