トム・クリステンセン
Tom Kristensen
2014年ル・マン24時間レースにて
基本情報
国籍 デンマーク
生年月日 (1967-07-07) 1967年7月7日(56歳)
出身地ホブロー
トム・クリステンセン(Tom Kristensen 、1967年7月7日 - )は、デンマークのレーシングドライバー。
2013年現在ル・マン24時間レースで史上最多9度の総合優勝を飾っており、「ル・マン・マイスター」の異名を取る。 1984年にカートを始めたのがレーサーとしてのキャリアの始まり。1989年にドイツF3選手権に参戦を開始し、1991年にドイツF3のシリーズチャンピオンを獲得した。 翌1992年に来日し全日本F3選手権に参戦。1993年には全日本F3でもシリーズチャンピオンに輝き、インターナショナルF3リーグで優勝した。1994年・1995年には全日本F3000選手権・全日本ツーリングカー選手権(JTCC)にダブルエントリー。1994年のJTCCではシリーズランキング2位を獲得、同年夏から秋にかけては、F1のシムテックと日本グランプリ以後のシート獲得交渉をしていたが[1]、クリステンセンより大きい金額のスポンサーを持ち込んだ井上隆智穂にシムテックのシートを奪われF1デビューは叶わなかった。 1995年の全日本F3000ではシリーズ終盤までランキング首位に立って最終的にはシリーズランキング3位に入る活躍を見せた。1996年にヨーロッパに戻り国際F3000選手権に参戦を開始した。 そして大きなキャリアの転機となったのが1997年。トム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)が開発したポルシェ・WSC95を走らせるチーム・ヨーストに加入し、初参戦となったル・マン24時間レースでミケーレ・アルボレート/ステファン・ヨハンソンといった経験豊富なチームメイトにも助けられいきなり総合優勝を飾った。 翌1998年には、同年限りでF1から撤退するティレルのテストドライバーとなったほか、BMWがウィリアムズと共同開発したBMW・V12 LMでル・マン24時間レースに参戦したが結果はリタイア。翌1999年もシュニッツァー・モータースポーツからBMW・V12 LMRでル・マン24時間レースに参戦するがまたもリタイアに終わった。ちなみにこの縁で、2000年にはウィリアムズ・BMWでミシュランのF1復帰に先立つタイヤテストも担当している。 2000年にはアウディと手を組んだチーム・ヨーストに復帰、アウディ・R8でル・マン24時間レースに参戦。以後2005年までル・マン24時間で総合6連覇を達成し、ジャッキー・イクスの持つル・マン個人最多勝記録だった6勝を塗り替えた。この中で2003年のル・マン24時間レースにはアウディと同じVWグループのベントレー・スピード8で優勝、2004年のル・マン24時間レース
略歴
2004年からはドイツツーリングカー選手権(DTM)にも参戦を開始。シリーズチャンピオン獲得には至っていないものの、アウディワークスの一角を占める名物ドライバーとして存在感を見せていたが、2009年をもってDTMから「卒業」し、スポーツカーレースに専念することを表明した。
2014年8月には長年の活躍を讃えられ、デンマーク王室からダンネブロ勲章を受章した。レーシングドライバーとしてデンマーク王室から勲章を受けるのはクリステンセンが初めて[2]。
2014年11月19日、同年一杯での現役引退を公表[3]。同年11月30日にインテルラゴス・サーキットで開かれるFIA 世界耐久選手権(WEC)・最終戦がラストレースとなる。引退後も引き続きアウディに籍を置き、チームのアドバイザーを務めていたが[3]、2016年でアウディがWECから撤退したため、その後の去就は不明。
レース活動の一方で、2010年からはF1・スペイングランプリのレーススチュワード(競技審査委員)を務めているほか[4]、2016年に国際自動車連盟(FIA)ドライバーズコミッションの委員長に就任した[5]。そのため2021年現在はFIAの世界モータースポーツ評議会(WMSC)の評議員にも名を連ねる。2022年2月、ドライバーズ委員会の委員長を退任した(後任はフェリペ・マッサ)[6]。
ル・マンでは圧倒的な強さを見せる一方で、レース・オブ・チャンピオンズでは過去5回決勝進出しているものの一度も優勝がない(2017年現在)。 年チームエンジンクラス123456789101112DCポイント
レース戦績
フォーミュラ
ドイツ・フォーミュラ3選手権
1989年
15OST
15HOC
DNSWUNHOCDIENURNURHOC31位8