トム・ウィルソン
出生名Thomas Blanchard Wilson Jr.
生誕1931年3月25日
出身地 アメリカ合衆国 テキサス州、ウェーコ
死没 (1978-09-06) 1978年9月6日(47歳没)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州、ロサンゼルス
ジャンルジャズ、フォーク、ロック
職業音楽プロデューサー
活動期間1956年 - 1978年
公式サイト ⇒TOM WILSON Record Producer
トム・ウィルソン(Tom Wilson)ことトーマス・ブランチャード・ウィルソン・ジュニア(Thomas Blanchard Wilson Jr.、1931年3月25日 - 1978年9月6日)は、アメリカ合衆国の音楽プロデューサー。 テキサス州ウェーコ市出身。アフリカ系アメリカ人である。ウェーコにあるA. J. ムーア高校に入学し、ニューホープ・バプテスト教会に入った[1]。フィスク大学に入学したのち、ハーバード大学に移った。そこでハーバード・ニュー・ジャズ・ソサエティに深く関わるようになる。 大学卒業後、900ドルを借りてマサチューセッツ州ケンブリッジにトランジション・レコードを設立した。トランジション・レコードはセシル・テイラーのデビュー・アルバムやサン・ラなどを手がけたが、1957年に倒産。同社のカタログはブルーノート・レコードとデルマーク・レコードに売られた。同年、ウィルソンはユナイテッド・アーティスツ・レコードに働き口を見つけ、そこからサヴォイ・レコードを含む様々なジャズ・レーベルでプロデューサーとして活躍した[2]。 1963年、コロムビア・レコードのA&R部門に就職[3]。同年4月24日、ニューヨークのコロムビア・スタジオで行われたボブ・ディランのレコーディング・セッションでプロデューサーを務める。デビュー時からディランのレコードを担当していたジョン・ハモンドとマネージャーのアルバート・グロスマンの関係が悪化したためと言われている。ウィルソンはディランとの出会いを次のように述べている。 「フォークミュージックは特に好きじゃなかった。僕はそれまでサン・ラやコルトレーンをレコーディングしてきたからね。フォークミュージックは利口じゃない連中のための音楽だと思ってたし、ディランの歌も同程度にばかみたいなものだと思ってた。ところがスタジオに入ると、あふれるようにあの言葉が流れてきた。びっくりしたよ」[4] 1964年2月、サイモン&ガーファンクルはコロムビア・レコードと契約[5]。同年10月に発売された彼らのデビュー・アルバム『水曜の朝、午前3時』のプロデューサーを務めた。 1965年6月16日に行われた「ライク・ア・ローリング・ストーン」のセッションまでディランの作品に関わった。一説にはディランがウィルソンをプロデューサーからはずすよう会社に伝えたと言われている[6]。ウィルソンはコロムビアを退職する道を選ぶが、会社を去る前にサイモン&ガーファンクルの『水曜の朝、午前3時』に収録されていた「サウンド・オブ・サイレンス」にエレクトリック・セクションを追加録音。同年9月にシングルとして発売された「サウンド・オブ・サイレンス」は翌年、全米1位を記録した。 1966年、MGMレコードに移り、子会社のヴァーヴ・レコードにてマザーズ・オブ・インヴェンションやヴェルヴェット・アンダーグラウンドとの契約にサインをした。ニコの『Chelsea Girl
来歴
1970年代の初めにロサンゼルスに移住。マルファン症候群を患い、1976年に最初の心臓発作を起こす[3]。1978年9月6日、心筋梗塞のため死去。47歳没。 年号アーティスト作品名
主なプロデュース作品
1956年セシル・テイラーJazz Advance
1956年ドナルド・バードByrd's Eye View