トミー・クルーズ
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はクルーズ、第二姓(母方の)はディランです。

トミー・クルーズ
Tommy Cruz2014年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地アローヨ(現: プエルトリコ自治連邦区)
生年月日 (1951-02-15) 1951年2月15日(73歳)
身長
体重175 cm
80 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション左翼手
プロ入り1969年
初出場MLB / 1973年9月4日
NPB / 1980年4月5日
最終出場MLB / 1977年9月25日
NPB / 1985年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


アローヨ高等学校

セントルイス・カージナルス (1973)

シカゴ・ホワイトソックス (1977)

日本ハムファイターズ (1980 - 1985)

指導歴


中信兄弟 (2016 - 2017)

富邦ガーディアンズ (2018)

楽天モンキーズ (2020)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

シリロ・クルーズ・ディラン(Cirilo "Tommy" Cruz Dilan、1951年2月15日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手外野手)。

兄にホセ・クルーズ(元ヒューストン・アストロズほか)、弟にヘクター・クルーズ(元読売ジャイアンツ)がおり、「クルーズ三兄弟」と呼ばれた。
経歴

1980年日本ハムファイターズに入団。来日1年目から打率.309、26本塁打、84打点の好成績を記録。翌1981年もチームのリーグ優勝に貢献。西武とのパシフィック・リーグプレーオフでは1勝3敗で敗れたが第2戦で工藤公康から同点タイムリー、第3戦で杉本正から先制タイムリー、第4戦で東尾修から2ラン本塁打を放つなど活躍した。1984年には打率.348、29本塁打、96打点を記録し、ベストナインに選ばれる(この年に三冠王を獲得したブーマー・ウェルズ阪急)とタイトル争いをするほどだった)。同年のオールスターゲーム第3戦では、江川卓の「8連続奪三振」の8人目の打者となった。1985年にも打率3割を記録したが、契約で揉めて退団となった。

在籍時は3番クルーズ、4番トニー・ソレイタ、5番柏原純一(柏原とクルーズは入れ替えで3・5番を務めた)のクリーンナップを組んだが、ソレイタや柏原は後にクルーズについて「私生活では良い奴であり、野球では一切、自分に妥協を許さなかった選手」と語っている。

顔面に死球を食らって大出血、担架救急車で球場を後にしたこともある。しかし、顔を7針縫ったにもかかわらず、翌日の試合にスタメン出場し、猛打賞を記録した。当時の監督大沢啓二のお気に入りだったことも伝えられている。

メジャーリーグでは7試合出場にとどまったが、日本では実働6年間のうち退団する1985年までで4回も3割以上の打率を残し、さらに通算打率.310、通算120本塁打を打った。また、三振が非常に少ない打者であった。
詳細情報
年度別打撃成績



度球













































O
P
S

1973STL3001000000000000000----------------
1977CWS4221000000000000000.000.000.000.000
1980日本ハム127513488621512732626284441220024414.309.338.537.875
1981116502465651383021822675210332223610.297.343.486.829
1982125507477551282411720567111422333921.268.302.430.732
1983113482434341392111119574210639033210.320.376.449.825
1984124527489661703622929796010533603712.348.385.607.992
1985107464427631371721921570000532303211.321.364.504.868
MLB:2年7222000000000000000.000.000.000.000
NPB:6年7122995278034586315511120140046698225178141022078.310.351.504.855


各年度の太字はリーグ最高

表彰
NPB


ベストナイン:1回 (外野手部門:1984年)

月間MVP:2回 (1980年9月、1984年9月)

パ・リーグプレーオフ優秀選手賞:1回 (1982年

後楽園MVP:1回 (1984年)

記録
NPB初記録


初出場・初先発出場:1980年4月5日、対
西武ライオンズ前期1回戦(後楽園球場)、3番・右翼手として先発出場

初安打:1980年4月8日、対阪急ブレーブス前期1回戦(阪急西宮球場)、2回表に山下浩二から

初本塁打・初打点:1980年4月21日、対南海ホークス前期4回戦(大阪球場)、5回表に杉田久雄から2ラン


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