トミー・ウィゾー
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トミー・ウィゾー

トミー・ワイゾー

トミー・ウィゾー
トミー・ワイゾー
Tommy Wiseau
ザ・ルーム』公開に当たって公開された宣伝画像
出生地ヨーロッパ
国籍 アメリカ合衆国
職業俳優映画監督
活動期間2003年 ?
公式サイトtommywiseau.com
主な作品
ザ・ルーム
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本人のサイン

トミー・ウィゾーないしワイゾー(: Tommy Wiseau; Thomas P. Wiseau、[w??zo?][1]ないし[?wa?zo?])[2])は、アメリカ合衆国俳優映画監督である。2003年の映画『ザ・ルーム』で脚本・制作・監督・主役を務めたが、作品は批評家から史上最悪の映画(英語版)のひとつと考えられ、カルト映画扱いされている[3]。また2004年のドキュメンタリー『ホームレス・イン・アメリカ』(原題、"Homeless in America")を共同監督し、2015年にはシットコム『ザ・ネイバーズ(英語版)』(原題)を制作した[4][5]

ウィゾーの私生活は、年齢、収入源、バックグラウンドを含めて未検証だが、ファンの間では激しい憶測と数多くの矛盾した報告が行き交っている[6]。グレッグ・セステロ(英語版)が2013年に刊行したノンフィクション本『ディザスター・アーティスト(英語版)』"The Disaster Artist: My Life Inside The Room, the Greatest Bad Movie Ever Made"、またこの本を原作として2017年に制作された映画版は、『ザ・ルーム』制作とウィゾーの人生に迫る作品である。
幼少期撮影日不明の顔写真

ウィゾーは自身の幼少期を極めて秘匿している[6]。複数のインタビューで「かなり前に」("a long time ago") フランスに住んでいたと語っており[7]ルイジアナ州ニューオーリンズで育ったと話し[8][9]、「家族全員」("an entire family") が同州シャルメット(英語版)に住んでいると述べている[10]。2010年に「Crikey(英語版)」が行ったインタビューでは、生年について1968年か1969年と仄めかしたが(インタビュー段階で41歳)[11]、友人で『ザ・ルーム』にも出演したグレッグ・セステロ(英語版)は、2013年の回想記『ディザスター・アーティスト(英語版)』で、彼の兄弟のガールフレンドが、ウィゾーのアメリカ合衆国への移民ビザのコピーを入手し、彼が主張するより「もっと早く」(much earlier) 生まれていることを突き止め[12]、実際には1950年代の半ばから後半にかけて東側諸国で生まれていたと述べている[13]

2016年のドキュメンタリー『ルーム・フル・オブ・スプーンズ(英語版)』で、ウィゾーと長年協力しているリック・ハーパー (Rick Harper) は、ウィゾーの出自を探り、ポーランド人で出生地はポズナンだと主張している[14]。2017年11月にはウィゾーも、「長い話をまとめれば、自分はかつてヨーロッパで育ったのだが、今やアメリカ人だしそれを誇りに思っている」Long story short, I grew up in Europe a long time ago, but I'm American and very proud of it. と話し、初めて公にヨーロッパ出身であることを認めた[15][16]

セステロは回想記『ディザスター・アーティスト』の中で、ウィゾーが自分に「魅力的で悲しく、自己矛盾をはらむ物語」("fantastical, sad, self-contradictory stories") を通じて、若い頃にストラスブールへ移り住んだこと、そこで「ピエール」(Pierre) という名前を付けてレストランの皿洗いとして働いていたことを教えてくれたと述べている[17]。セステロによれば、ウィゾーはホステルでの違法薬物捜査の後不当逮捕され、フランス警察から受けた仕打ちがトラウマとなり、アメリカ合衆国に移住してシャルメットに住んでいたというおじおばと生活したと話していた[18]。この主張が正しいかどうかは未検証である。

セステロ(ウィゾーが一連の事情を話したとされる唯一の情報源)は、ウィゾーはルイジアナ州にある程度住んだ後、カリフォルニア州サンフランシスコへ移住し、フィッシャーマンズワーフ付近で観光客におもちゃを売る露天商として働いていたと述べている。ウィゾーは鳥のおもちゃ(当時ヨーロッパでのみ人気だった)を売っていたことから「バードマン」("The Birdman") という渾名を付けられたが、アメリカ合衆国の市民権を得る際に、フランス語で「鳥」を意味する oiseau という単語の頭を出生名のイニシャルである "W" に替え、「トーマス・ピエール・ウィゾー」(: Thomas Pierre Wiseau)という名前に改名したのだという[19]

この頃、ウィゾーはオークランドのラニー・コミュニティ・カレッジ(英語版、英語版)で心理学の学位を取ったと主張しており[20][21]、優等生 (en) として卒業したと主張している[22]

セステロによれば、ウィゾーはサンフランシスコ・ベイエリアで様々な職に就き、その中にはレストランの給仕助手や病院での仕事が含まれ、また安値で不良品のジーンズを売る「ストリート・ファッションズUSA」("Street Fashions USA") という事業も興していたという。その後次第にサンフランシスコやロサンゼルス近辺で大きな小売りスペースを購入して貸し出すようになり、独立した富を得たと話していたようだ。セステロはウィゾーが事業を通して速やかに富を得たという話には現実味がないと述べている[23]。セステロはまた、『ザ・ルーム』に関与した多くの人々が、映画の製作は組織犯罪の資金洗浄手段のひとつだと考えていたと示唆しているが、セステロ本人はその可能性は低いと考えていると述べている[24]

ウィゾーはまた、カリフォルニア州で赤信号を無視した車に衝突され、危うく死にかけた交通事故に巻き込まれた上、数週間入院する羽目になったと主張している[25]。セステロはこの事故がウィゾーの人生の転換点であり、この一件の後ウィゾーは、経済的安定を求めて無視し続けていた俳優・監督になるという夢を追い求めはじめたのだと話している[26]
キャリア
映画作品
影響並びに初期の作品

ウィゾーは『ナバロンの要塞』や『市民ケーン』といった映画に影響を受けていると述べており、また俳優の中ではジェームズ・ディーンマーロン・ブランドの影響を強く受けている[27][28][29]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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