トマ・クチュール
[Wikipedia|▼Menu]

トマ・クチュール
Thomas Couture
自画像
誕生日1815年12月21日
出生地フランス,サンリス
死没年 (1879-03-30) 1879年3月30日(63歳没)
死没地フランス,ヴィリエ=ル=ベル
テンプレートを表示

トマ・クチュール(Thomas Couture, 1815年12月21日 ? 1879年3月30日)は、フランス歴史画画家、美術教師。
生涯

クチュールはオワーズ県サンリスに生まれた。11歳の時、家族と一緒にパリに移った。そこでクチュールはエコール・デザール・ゼ・メティエ(Ecole des Arts et Metiers。現・フランス国立高等工芸学校 Ecole nationale superieure d'arts et metiers)、続いてエコール・デ・ボザールで学んだ。ローマ賞に6度挑んだがことごとく失敗した。しかし、問題は自分自身ではなく、エコールにあると感じていた。1837年、ようやくローマ賞を受賞した。

1840年からサロンに歴史画と風俗画を出展しはじめた。いくつかのメダルを受け、その中には代表作の『退廃期のローマ人たち』も含まれる。この成功後まもなく、クチュールは新進歴史画家に転じることで、エコーレ・デ・ボザールに挑戦する意味で個人のアトリエを開設した。トマ・クチュール『退廃期のローマ人たち』(1847年)

クチュールの革新的なテクニックは各所から注目され、1840年代後期から1850年代にわたって、政府や教会から壁画制作を依頼された。しかし、クチュールは最初の2つの壁画を完成させることができず、3つ目の壁画はさまざまな批判を浴びた。その批判にうちのめされ、1860年、クチュールはパリを離れ、故郷のサンリスに戻った。そこで自分のところにやって来た若い画家たちに絵を教えた。1867年、独自の考えと創作方法に関する本を出版して、アカデミーの体制をばかにした。

クチュールの教え子には、エドゥアール・マネアンリ・ファンタン=ラトゥールピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌといった後の美術界の権威者たちがいた。

出版者から自伝を依頼された時、クチュールはこう答えた。「伝記は名士の賛美??名士はこの時代の災いのもと」。

クチュールはヴァル=ドワーズ県ヴィリエ=ル=ベルで亡くなり、パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
ギャラリー

『志願兵の募集』 (1848年)

『オーガの食事』

『仮面舞踏会後の晩餐(ラテン語版)』 (1855年)

アンゼルム・フォイエルバッハ』 (1852年)

小さな水浴者』 (1849年)

トマ・クチュールに学んだ画家(一部)

マルスラン・デブータン (1823-1902)

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ (1824-1898)

フェルディナンド・ファーゲルリーン (1825-1907)

ルドヴィック・ピエト (1826-1878)

ギュスターヴ=アンリ・コラン (1828-1910)

ジョアンナ・メアリー・ボイス (1831-1861)

エドゥアール・マネ (1832-1883)

フランソワ=アルフレッド・ドロブ (1835-1920)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:9 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef