トマス・ベケット
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「トーマス・ベケット」はこの項目へ転送されています。架空の狙撃兵については「山猫は眠らない」をご覧ください。

トマス・ベケット
カンタベリー大司教
暗殺場面の描かれた装飾写本
着座1162年
離任1170年12月29日
前任シオボルド・オブ・ベック(英語版)
後任リチャード・オブ・ドーバー
聖職
叙階/叙聖1154年助祭
個人情報
出生1118年12月21日
イングランド王国
ロンドン
死去1170年12月29日
イングランド王国
カンタベリー大聖堂
墓所 イングランド王国
カンタベリー大聖堂
聖人
記念日12月29日
崇敬教派カトリック教会
アングリカン・コミュニオン
列聖1173年2月21日
列聖決定者アレクサンデル3世
テンプレートを表示

トマス・ベケット(Thomas Becket, 1120年12月21日[1][2] - 1170年12月29日[3])は、イングランド聖職者カンタベリー大司教(在任:1162年 - 1170年)。
生涯

ノルマン人富裕層の両親の子としてロンドンに生まれた。1142年ごろ、カンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベック(英語版)の元に仕え、留学の後1154年助祭長となる。[3]

また、イングランド王ヘンリー2世大法官として仕えた。しかし、大司教に叙階された後は教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、さらには他の司教の支持も失い1164年、国外へ逃亡した[3]。逃亡先のポンティニー修道院は、当時追放された他のイングランドの高位聖職者達がトマス・ベケットをはじめ、多数滞在した[4]

ヘンリー2世との和解は1170年に成ったものの、帰国早々またしても問題が発生した。ヘンリー2世の息がかかった司教に対し、ベケットが懲戒を行ったものである。ヘンリー2世は当時ノルマンディーに滞在していたがこれに激怒し、その意を汲んだ4人の騎士がカンタベリーに向け渡海、12月29日の夕刻、ベケットはカンタベリー大聖堂において暗殺された。目撃者の証言によると最後の言葉は「喜んで私は、イエスの名のために、また教会を守るために死ぬ」であったと伝えられている[3]
死後

1173年ローマ教皇アレクサンデル3世はベケットを列聖し、以後多くの巡礼者がカンタベリー大聖堂に訪れることになった[3]。翌1174年7月12日、ヘンリー2世はベケットの墓の前で懺悔を行った。ローマ教会に屈服を余儀なくされたこともあり、この事件はヘンリー2世の命運を暗転させる契機となった。

1880年コンラート・フェルディナント・マイヤーが『聖者』でベケットの生涯を描いた。1884年、詩人のアルフレッド・テニスンが『ベケット』を書き、T・S・エリオットの詩劇『寺院の殺人(英語版)(1935年)』[5]ジャン・アヌイの戯曲とそれを原作とする1964年の映画『ベケット』がある[3]
脚注^ “A timeline of Thomas Becket's life and legacy”. The British Museum. The Trustees of the British Museum. 2024年2月7日閲覧。
^ Michael Walsh, ed. "Butler's Lives of the Saints." (HarperCollins Publishers: New York, 1991), p. 430.
^ a b c d e f アットウォーター,ドナルド; ジョン,キャサリン・レイチェル 著、山岡健 訳『聖人事典』三交社、1998年、251-253頁。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef