トマス・ニューコメン
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トーマス(トマス[1])・ニューコメン(Thomas Newcomen、1664年2月24日 - 1729年8月5日)は、イギリスの発明家、技術者であり、鉱山の排水のために、最初の実用的な蒸気機関を建造した。その後の産業革命の動力を担った蒸気機関の実質上の発明者とされている[2]。この蒸気機関は、真空と大気圧との差だけを利用した点で、大気圧機関と呼ばれることもある。生涯にわたって敬虔なプロテスタントバプテスト信徒であった。

確認された肖像画は見つかっていない。[3]
生涯
生い立ち

トマス・ニューコメンは、イングランド南西部のデヴォンダートマスで生まれ、1664年2月24日[注釈 1]にセント・セイヴィア (St.Saviour) 教会でバプテスマ洗礼)を受けた。父はイライアス (Elias) 、母はサラ (Sarah) で、一家は金物商 (ironmonger) を営んでおり、トマスは5人兄弟姉妹の3番目(次男)であった。

1678年頃からエクセターへ金物商の徒弟奉公に出て、1685年頃には、ダートマスへ帰って家業の金物商となっていた[注釈 2]。彼はコーンウォールやデヴォンの鉱山をしばしば訪れており、鉱山産業のための機器の製造・販売が彼の仕事の一部となっていた[4]

当時の鉱山では、坑道内の出水をいかにして排出するかが大きな問題であり、ニューコメンは間もなく、この鉱山の排水方法の改善に従事するようになった。この頃、同じくダートマスのバプテストの配管工でガラス職人のジョン・コウリー(John Calley;1663年 - 1717年)と出会い、その後2人で共同して鉱山の排水のための機関の開発を行うようになった。

ニューコメンは1705年に、同じくデヴォン州のマールバラ(英語版)の農夫の娘ハンナ・ウェイマス(Hannah Waymouth; 1682年 - 1756年)と結婚し、その後3人の子供をもうけた[5]
信仰

トマス・ニューコメンの曾祖父はダートマス近隣の村の著名な教区牧師であり、祖父の代からバプテスト信徒となり、トマスの父は有名な伝道者ジョン・フラーヴェル(英語版)をダートマスへ連れてきたグループの一員でもあった。トマスもフラーヴェルのもとで教育を受けたと考えられる。トマス自身、地元のバプテスト教会で信徒説教者 (lay preacher) を務め、後年、機関の仕事で地元を離れても、日曜日には説教者の仕事に専念していた[5][6][7]

後年、彼のロンドンでの仕事仲間であったエドワード・ウォリン (Edward Wallin) は、著名なバプテストのジョン・ギル(英語版)と繋がりのある牧師であった。ジョゼフ・ホーンブロアー(英語版)(1696年 - 1762年)は10代はじめにニューコメンから説教を受け、熱心な信徒になるとともにニューコメン機関の建造を手がけるようになり、彼の子や孫たちも、その後の蒸気機関の開発と建造に大きく関わることになった[8]
蒸気機関の開発

ニューコメンの機関は、後述の図に示すように、ピストンで蒸気を閉じ込めたシリンダの下端に蒸気の入口と冷水の噴射口とを設けたものであった。冷水入口のコックを回して冷水を噴射して中の蒸気を凝縮すると、シリンダ内が真空(負圧)となるため、ピストン背面の大気がピストンを下へ押し、ピストンを鎖で吊っているビーム(大きなてこ)の一端を引き下げて、ビームの他端から吊り下げたロッドを介して坑道底の排水ポンプで水を汲み上げる。次に蒸気入口の弁を開くと、ポンプの自重でピストンが持ち上げられて、シリンダは、その下のボイラから入ってくる蒸気で再び満たされる。この動作を繰り返してポンプを駆動し、坑道の底に溜まった水を排水するものであった。ニューコメンの蒸気機関の動作原理。ボイラーの蒸気圧は低くピストンの上昇はポンプの自重による結果であり、動力を発生するのはピストンを押し下げる大気圧による。

この新しい機関は、全体的には既知の部品の組み合わせであり、また当時の技術をうまく総合すれば、不可能なものではなかった。シリンダとピストンは、大きさは異なるが、ゲーリケパパンらが用いたものであり、ボイラ設備は大きな醸造用の銅製ボイラそのものであり、ポンプ類は以前から鉱山でよく使われていたものであった。当時の職人の手になるこれらの部品を一つの設備として組み上げたことに、大きな特徴があった。個別の独自のアイデアとしては、蒸気の凝縮に冷水の直接噴射を用いること、弁の開閉を自動で行う工夫がされていることなどが挙げられる。

少し以前の1698年にセイヴァリが発明した「火の機関」と比べると、ピストン・シリンダを用いて間接的にポンプを駆動する点、および蒸気の圧力は用いずに蒸気を真空を作り出す用途にだけ利用する点で、大きく異なっていた[9]

金物商であったニューコメンが、どのようにしてこの機関の着想を得たのか、正確には分からない[注釈 3]。セイヴァリはダートマスから15マイル(24km)ほど離れたモッドベリー(英語版)に住んでいたため、ニューコメンとセイヴァリの間で以前から交流があったのではないかとの説もあるが、ニューコメンがセイヴァリの実験を事前に知っていた事実は確認できない。セイヴァリが「火の機関」の特許を取った頃には、ニューコメンらは蒸気機関の考案と試作を独自に行っていたとされ、後でセイヴァリの特許を知ったニューコメンは、やむなくセイヴァリの特許のもとで機関の建造に当たったと考えられている[10][11]
最初の蒸気機関

ニューコメンとコウリーは、10年余りの思考と実験の末、1710年頃に彼の機関をほぼ開発できたとされている。その頃、コーンウォールのどこかの鉱山で建造されてうまくいかなかった可能性があるが、確認されていない[12][13]

確認されている最初の成功した機関は、1712年にスタッフォードシャー州のダドリー城(英語版)近くのコウニーグリー (Coneygree) 炭鉱[注釈 4]で建造された機関である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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