トマス・シデナム(英語: Thomas Sydenham、1624年9月10日洗礼 ? 1689年12月29日)は、イングランド王国の医師。1676年の著作『医学観察』で症候の観察に集中すべきと主張し[1]、「イギリスのヒポクラテス」(the English Hippocrates)と呼ばれるほどの名声を得たが、シデナムが生前にそのように称えられたことはなく[2]、実際には18世紀初からの呼称である[3]。また、シデナム舞踏病(英語版)に関する記述でも知られる[4]。
18世紀初のオランダ人医師ヘルマン・ブールハーフェはシデナムを尊敬しており、そのアプローチは19世紀の医学を影響することとなる[5]。 ウィリアム・シデナム(William Sydenham、1593年 ? 1661年、ジェントルマン)とメアリー・ジェフリー(Mary Jeffrey、1644年8月没、サー・ジョン・ジェフリーの娘)の息子として生まれ、1624年9月10日にドーセットのウィンフォード・イーグル
生涯
生い立ちと軍歴
1642年7月1日にオックスフォード大学モードリン・ホールに入学したが[1]、同年8月に第一次イングランド内戦が勃発するとオックスフォードシャーからドーセットに戻り、兄弟たちと同じく議会派の軍勢に加入した[3]。シデナムはコルネット(英語版)として兄ウィリアムの部下になったが、1643年には王党派の軍勢がドーセットで優勢になり[1]、同年9月4日にデヴォンのエクセターが王党派に占領されるときはシデナムも捕虜にされた[3]。以降9から10か月間ほど捕虜のままだったが、釈放されると1644年7月に兄ウィリアムとともに王党派によるドーチェスターへの攻撃を撃退した[3]。また、このときまでに大尉に昇進している[3]。1645年秋にトーマス・フェアファクスとオリヴァー・クロムウェルがドーセットにおける王党派の軍勢を降伏させると、シデナムの軍歴も1646年に終結した[3]。
このとき、医師トマス・コックス(英語版)が兄ウィリアムを治療したこともあって、シデナムはコックスに同伴してデヴォンからロンドンに戻った[3]。これがきっかけとなって、シデナムは医師の道を志すようになった[3]。1647年5月1日に制定された条例により、議会が代表をオックスフォード大学に派遣して反対派を追放することが決定されると[1]、シデナムは同年9月30日にオックスフォード大学ウォダム・カレッジ(英語版)への代表に選ばれ、これにより同年10月14日にウォダム・カレッジに入学することとなった[3]。第二次イングランド内戦(1648年3月 ? 8月)では参戦せず、オックスフォード大学での業務に専念し、1648年4月14日に褒賞として大学総長(英語版)の第4代ペンブルック伯爵フィリップ・ハーバートよりB.Med.の学位を授与された[1]。さらに同年10月3日にオックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ}のフェロー(fellow)に選出されたが、このときはM.D.を修得しなかった[3][6]。フェローには1655年まで留任したが[6]、実際には1651年に軍務に復帰した[1]。それでもオックスフォード大学での4年間はシデナムにとってラテン語の知識を取り戻し、医学を正式に学んだ大事な時期だった[1]。
第三次イングランド内戦中の1651年、チャールズ・ステュアート(後の国王チャールズ2世)がスコットランド王として戴冠した後、シデナムは1651年4月21日に騎兵連隊の大尉としての辞令を受けて再び軍務に復帰、はじめレスターやノッティンガムなどミッドランズ(英語版)地方(イングランド中部)に駐留し、続いてスコットランドとの国境付近に行軍した[3]。チャールズの軍勢が南下すると、騎兵連隊はそれを追うよう命じられ[3]、これによりシデナムは激戦に見舞われ、9月3日のウスターの戦い前後(具体的には8月29日から9月4日までと9月19日から25日まで)におそらくは重傷によりオール・ソールズ・カレッジを訪れて休むことを余儀なくされた[1]。その後、内戦の終結に伴い騎兵連隊は10月20日に解散された[1]。 1654年3月、クロムウェルへの請願を提出して、兄フランシスと弟ジョンの戦死や自身の軍人としての貢献などを挙げた結果、クロムウェルは3月3日に請願の内容を認め、4月25日には600ポンドがシデナムに支払われた[3][2]。このとき、シデナムが適任とされる官職への任命も指示され、おそらく1655年1月にComptroller of the Pipeに就任、1660年の王政復古まで務めた[1]。同時期にフランス王国のモンペリエで医学を学んだとする説が『ブリタニカ百科事典』や『英国人名事典』といった19世紀末から20世紀初の文献で唱えられているが[3][2]、21世紀初の『オックスフォード英国人名事典』では確実な証拠がなく、ほかのシデナム姓の人物との混同の可能性が高いとしている[1]。特に後者では王立内科医学会
王政復古まで