トマス・ゲイジ
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将軍(英語版)
トマス・ゲイジ
Thomas Gage
ジョン・シングルトン・コプリーによる肖像画、c. 1768

第13代 マサチューセッツ湾直轄植民地総督
任期
1774年5月13日 ? 1775年10月11日
君主ジョージ3世
前任者トマス・ハッチンソン
後任者空席 (アメリカ合衆国独立)
ジョン・ハンコック (マサチューセッツ州知事として)
北アメリカ最高司令官(英語版)
任期
1763年9月 ? 1775年6月
君主ジョージ3世
前任者ジェフリー・アマースト
後任者フレデリック・ホルディマンド(英語版)
モントリオール総督(英語版)
任期
1760年 ? 1763年
前任者フランソワ=ピエール・リゴー・ド・ヴォードルイユ(英語版)
後任者ラルフ・バートン(英語版)

個人情報
生誕1718/19年3月10日
グレートブリテン王国 サセックス州ファール(英語版)
死没1787年4月2日 (67-68歳没)
グレートブリテン王国 ロンドン ポートランド・プレイス(英語版)
配偶者マーガレット・ケンブル・ゲイジ (m. 1758)
署名
兵役経験
所属国 グレートブリテン王国
所属組織イギリス陸軍
軍歴1741年 ? 1775年
1781年 ? 1782年
最終階級将軍
指揮第80軽歩兵連隊(英語版)
モントリオール総督(英語版)
北アメリカ最高司令官(英語版)
戦闘

オーストリア継承戦争

フォントノワの戦い


1745年ジャコバイト蜂起

カロデンの戦い


フレンチ・インディアン戦争

ブラドック遠征(英語版)

モノンガヒラの戦い(英語版)

カリヨンの戦い


ポンティアック戦争

アメリカ独立戦争

レキシントン・コンコードの戦い

ボストン包囲戦

バンカーヒルの戦い


サー・トマス・ゲイジ(: Sir Thomas Gage, 1719年 - 1787年4月2日)は、イギリスの将軍である。1763年から1775年まで、特にアメリカ独立戦争の初期に北アメリカの最高司令官であった。
生涯
青年時代

1719年、サセックス州ファールで、初代ゲイジ子爵の次男として生まれた。1728年、高名なウエストミンスター・スクールに通い、そこでジョン・バーゴインリチャード・ハウフランシス・バーナード、およびジョージ・ジャーメインと知り合った。そこを卒業すると、まず少尉でイギリス軍に入り、続いて1741年1月30日にノーザンプトン連隊の中尉を購入した。1742年、バッテローの歩兵連隊に転属され上級中尉となった。

1743年には大尉に昇進し、フォンテノアの戦いとカロドン・ミュアの戦いでアルベマール伯ウィリアム・ヴァン・ケッペルの副官となった。1747年から1748年、ゲイジはオランダでの作戦に従軍し、1758年少佐の位を購入した。1751年3月に第55歩兵連隊に転属となり、中佐に昇格した。
フレンチ・インディアン戦争

1754年、ゲイジはアメリカに転属となり、フレンチ・インディアン戦争では、アメリカのエドワード・ブラドック将軍の遠征に従軍した。この遠征隊には、将来の敵となるジョージ・ワシントンホレイショ・ゲイツも加わっていた。1755年7月、第44連隊の指揮官ピーター・ハルケット大佐がモノンガヘラの戦いで撃たれて戦死した。ゲイジが連隊の指揮を執り、戦闘中に軽傷を負った。連隊はバラバラになり、ゲイジが取ったまずい野戦戦術で敗北につながったことをブラドックの副官であったロバート・オーム大尉が告発した。オームは翌年その任務から降りたが、オームの告発で、ゲイジは永久に第44連隊の指揮を執れなくなった。マーガレット・ケンブル・ゲイジ

1756年、ゲイジは失敗に終わったモホーク川の遠征に第二指揮官として加わった。翌年、ノバスコシアハリファックスの総司令官ジョン・キャンベルのもとに行き、ゲイジは第80連隊の指揮を任され、大佐に昇進した。1758年ゲイジはタイコンデロガ砦の戦いでまた失敗し傷を負った。この損失にも拘わらず、ゲイジは准将に昇進した(これはゲイジの兄ウィリアム・ホール・ゲイジの政治的な操作によっている)。ゲイジは自隊へ地元の者を徴兵する間に、ニュージャージーのブランズウィック出身のマーガレット・ケンブルと出会った。ケンブルはニューヨーク市長ステファナス・ファン・コートラントの孫であり、ウエストミンスター・スクール時代のゲイジの友人でその時はニュージャージー議会に勤めていた者の娘であった。二人は1758年に結婚し、1761年に長男、ヘンリー・ゲージが生まれた。

新将軍となったゲイジはオールバニー部隊の指揮に就き、ジェフリー・アマースト少将に仕えた。1759年、ゲイジはアマーストの命令でフランス軍に対する攻撃を行い、ラ・プレゼンタシオン砦を攻略し、続いてモントリオールを占拠するように言われた。ゲイジはアマーストに反対し、ゲイジの部隊はナイアガラ砦とオスウェルゴ砦の援軍に向かい、アマースト自身がモントリオール攻撃に向かうよう提案した。ゲイジはアマーストの不快を買い、1760年にアマースト自身がモントリオール攻撃の準備ができるまで、オールバニー砦の守備隊に配属された(実際にはゲージはアマーストの後衛を務めた)。
総督

フランス軍が降伏すると、ゲージはモントリオールの総督に指名された。1761年、ゲイジは少将に昇進し、第22連隊の指揮官となった。1763年8月にアマーストがイギリスに戻ると、ゲイジはアメリカのイギリス軍指揮官となった。イギリスはフランスと停戦したが、ゲイジは西部辺境で進行していた北米インディアンの反乱に直面することになった。

1763年5月、オタワ族ポンティアック酋長がデトロイト砦を攻め、ポンティアック戦争と言われるものの最初の戦いとなった。ゲイジは、外交的に事態を収拾しようと考え、ジョン・ブラッドストリート大佐とヘンリー・ブーケット大佐に遠征隊を任せ、一方でウィリアム・ジョンソン卿に和平交渉を行わせた。ブーケット大佐が1764年10月に名ばかりの休戦にこぎつけた。そのときでも、ゲイジはオタワ族が奪取した9つの砦の中2つしか取り返せなかった。1765年、ゲイジはキャベンディッシュ砦を取り返したことで、第42英国陸軍スコットランド高地連隊の指揮を執ることになった。

ゲイジは西部、南部、北部の3つの辺境を統括することとなった。同じ年の夏、ゲイジはポンティアックに使者を送るようジョンソンに命じた。このときはまだ紛争が解決していなかったが、ポンティアック自身がオンタリオ砦まで出向き、1766年7月にジョンソンと正式に条約に調印した。


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