将軍
(英語版)サー・トマス・ゲイジ(英: Sir Thomas Gage, 1719年 - 1787年4月2日)は、イギリスの将軍である。1763年から1775年まで、特にアメリカ独立戦争の初期に北アメリカの最高司令官であった。 1719年、サセックス州ファールで、初代ゲイジ子爵の次男として生まれた。1728年、高名なウエストミンスター・スクールに通い、そこでジョン・バーゴイン、リチャード・ハウ、フランシス・バーナード、およびジョージ・ジャーメインと知り合った。そこを卒業すると、まず少尉でイギリス軍に入り、続いて1741年1月30日にノーザンプトン連隊の中尉を購入した。1742年、バッテローの歩兵連隊に転属され上級中尉となった。 1743年には大尉に昇進し、フォンテノアの戦い 1754年、ゲイジはアメリカに転属となり、フレンチ・インディアン戦争では、アメリカのエドワード・ブラドック将軍の遠征に従軍した。この遠征隊には、将来の敵となるジョージ・ワシントンやホレイショ・ゲイツも加わっていた。1755年7月、第44連隊の指揮官ピーター・ハルケット大佐がモノンガヘラの戦いで撃たれて戦死した。ゲイジが連隊の指揮を執り、戦闘中に軽傷を負った。連隊はバラバラになり、ゲイジが取ったまずい野戦戦術で敗北につながったことをブラドックの副官であったロバート・オーム大尉が告発した。オームは翌年その任務から降りたが、オームの告発で、ゲイジは永久に第44連隊の指揮を執れなくなった。マーガレット・ケンブル・ゲイジ 1756年、ゲイジは失敗に終わったモホーク川の遠征に第二指揮官として加わった。翌年、ノバスコシアのハリファックスの総司令官ジョン・キャンベル
生涯
青年時代
フレンチ・インディアン戦争
新将軍となったゲイジはオールバニー部隊の指揮に就き、ジェフリー・アマースト少将に仕えた。1759年、ゲイジはアマーストの命令でフランス軍に対する攻撃を行い、ラ・プレゼンタシオン砦を攻略し、続いてモントリオールを占拠するように言われた。ゲイジはアマーストに反対し、ゲイジの部隊はナイアガラ砦とオスウェルゴ砦の援軍に向かい、アマースト自身がモントリオール攻撃に向かうよう提案した。ゲイジはアマーストの不快を買い、1760年にアマースト自身がモントリオール攻撃の準備ができるまで、オールバニー砦の守備隊に配属された(実際にはゲージはアマーストの後衛を務めた)。 フランス軍が降伏すると、ゲージはモントリオールの総督に指名された。1761年、ゲイジは少将に昇進し、第22連隊の指揮官となった。1763年8月にアマーストがイギリスに戻ると、ゲイジはアメリカのイギリス軍指揮官となった。イギリスはフランスと停戦したが、ゲイジは西部辺境で進行していた北米インディアンの反乱に直面することになった。 1763年5月、オタワ族のポンティアック酋長がデトロイト砦を攻め、ポンティアック戦争と言われるものの最初の戦いとなった。ゲイジは、外交的に事態を収拾しようと考え、ジョン・ブラッドストリート大佐とヘンリー・ブーケット大佐に遠征隊を任せ、一方でウィリアム・ジョンソン卿に和平交渉を行わせた。ブーケット大佐が1764年10月に名ばかりの休戦にこぎつけた。そのときでも、ゲイジはオタワ族が奪取した9つの砦の中2つしか取り返せなかった。1765年、ゲイジはキャベンディッシュ砦を取り返したことで、第42英国陸軍スコットランド高地連隊の指揮を執ることになった。 ゲイジは西部、南部、北部の3つの辺境を統括することとなった。同じ年の夏、ゲイジはポンティアックに使者を送るようジョンソンに命じた。このときはまだ紛争が解決していなかったが、ポンティアック自身がオンタリオ砦まで出向き、1766年7月にジョンソンと正式に条約に調印した。
総督