トマス・グレイ
誕生1716年12月26日
ロンドン
死没 (1771-07-30) 1771年7月30日(54歳没)
ケンブリッジ
職業詩人、歴史家
国籍 イングランド
ウィキポータル 文学
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トマス・グレイ(Thomas Gray, 1716年12月26日 - 1771年7月30日)は、イングランドの詩人、古典学者、ケンブリッジ大学教授。 グレイはロンドンのコーンヒル
初期の人生と教育
1734年、グレイはケンブリッジに移り、最初ペンブルック・カレッジに入り、それからピーターハウスに移ったが、グレイはカリキュラムを退屈に思った。友人への手紙に嫌いなことすべてを書いて送った。教師は「プライドに狂わんばかり」、学友は「眠くなる、大酒飲み、愚鈍、教養がない」。おそらく法律家を目指したのだろうが、現実には、古典・近代文学の勉強と、余暇にはハープシコードでヴィヴァルディやドメニコ・スカルラッティを演奏して過ごした。1738年、旧友のウォルポールと一緒にグランドツアーに参加したが、おそらく費用はウォルポールが持ったものと思われる。しかし、トスカーナで、ウォルポールは社交界のパーティに出たいと言い、グレイは古代遺物を回りたいと言い、喧嘩別れとなる。ただし、数年後に和解した。 1742年、友人のリチャード・ウェストが亡くなってから、グレイは真剣に詩を書き始めた。ケンブリッジで、自ら課した文学研究のプログラムを始め、当代きっての学者になったが、グレイは好きなことをやって怠けているだけと言った。まずピーターハウスの、それからペンブルック・カレッジのフェローになった。カレッジを変えたのは悪ふざけの結果だと言われている。 グレイは生涯のほとんどをケンブリッジで学者として過ごした。旅行も晩年にもう一度しただけだった。詩人としては、僅かの詩しか作らなかったが(存命中に出版されたグレイの詩集を全部集めても1000行に満たない)、18世紀中期の代表的な詩人と見なされている。1757年、グレイに桂冠詩人の話があったが辞退した。1768年、ローレンス・ブロケット
執筆とアカデミア
グレイは自分に批判的で、また失敗を恐れたため、存命中には13の詩を発表したのみだった。一度、自分の詩集が「ノミの作品と間違えられたら」どうしようと書いたことがある。ウォルポールは「彼はユーモアは書いたが安易なものは一度も書いたことがない」と言った。
傑作「エレジー」(Stoke Poges)の教会の墓場においてだとされる。未完のまま数年間放置され、1750年に完成した。1751年2月、ロバート・ドッズリー(Robert Dodsley)によってこの詩が出版されると、文学界にセンセーションを巻き起こした。その思索的で落ち着きのあるストイックな調子は大きな賞賛を受け、また剽窃・模倣・引用され、ラテン語やギリシャ語に翻訳された。現在でも『田舎の墓地で詠んだ挽歌』は人気があり、英詩のなかで、もっとも頻繁に引用される作品のうちの一つである。1759年のアブラハム平原の戦い(Battle of the Plains of Abraham)の後、イギリスの将軍ジェームズ・ウルフは部下の将校たちにこの詩を朗読して聞かせた後、「諸君、私は明日ケベックを落とすよりもこの詩を書きたい」と言ったという。この詩に出てくる「ivy-mantled tow'r(ツタに覆われた塔)」という有名な言葉は、中世初期のアプトン(Upton)のセント・ローレンス教会(Church of St Laurence)のことである。