トマス・ウルジー
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トマス・ウルジー
枢機卿

大司教区ヨーク
着座1514年9月15日
離任1530年11月28日/29日
聖職
枢機卿任命1515年9月10日
個人情報
出生1475年
イングランド王国サフォークイプスウィッチ
死去1530年11月28日/29日
イングランド王国レスター、レスター修道院(英語版)
出身校オックスフォード大学
紋章
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トマス・ウルジー (: Thomas Wolsey, PC, 1475年 - 1530年11月28日/29日)は、イングランドの聖職者、政治家。ウルジー枢機卿( ?すうききょう、英: Cardinal Wolsey)の名で知られる。国王ヘンリー8世の治世初期に寵臣として抜擢、信任を得て内政・外交に辣腕を振るった。なお、Wolseyの原語での発音はウォルズィーに近い。
生涯
王の側近に抜擢

イングランド東部サフォークイプスウィッチに生まれた。父親は肉屋をしていた。地元のグラマースクールオックスフォード大学モードリン・カレッジで学び、カレッジのフェローに選出、1498年に聖職者の資格を得る。それからは貴族たちの知己を得ながらサマセットのリミントン(英語版)を始め各地の聖職禄も獲得、カンタベリー大司教ヘンリー・ディーン(英語版)付きの司祭チャプレン)、カレー総督代理リチャード・ナンファン付きのチャプレンを経て、イングランド王ヘンリー7世の治世の1507年に王室礼拝堂付き司祭となり、ヘンリー7世に能力を買われ外交使節を務めた。しかし慎重なヘンリー7世から警戒され出世しなかったという[1][2][3]

1509年に即位したヘンリー8世にも認められ、非公式の秘書官に抜擢されて王とリチャード・フォックス(英語版)ら顧問官たちのパイプ役を務め、フォックスの引き立てもあり出世は続き1511年に枢密顧問官となった。1513年のヘンリー8世のフランス遠征(カンブレー同盟戦争)に伴う兵站、王への豪華な調度品移送などの準備に奔走した功績で王の覚えがめでたくなり、イングランド軍が占領したトゥルネーの司教(英語版)とイングランドのリンカン司教(英語版)に任命され、翌1514年ヨーク大司教にも任命され4000ポンドの莫大な不動産収入を手に入れたが、失脚するまで任地ヨークへ行かない教区不在聖職者であった。翌1515年にヘンリー8世からローマ教皇レオ10世への推薦で枢機卿にも任命、同年にウィリアム・ウォラム(英語版)の後釜として大法官1518年に教皇特使となる。これにより、聖俗共に司法権を握り教皇特使の権限でカンタベリーヨーク双方の教会管区にも支配を及ぼし、イングランド教会の支配を一手に収めるようになった。教皇特使就任に当たって教会改革を約束したり、親交があるデジデリウス・エラスムスのイングランド滞在に尽力する一面もあった[1][2][4]

以後も1518年にバース・アンド・ウェルズ司教(英語版)、1523年にダラム司教(英語版)、1529年にウィンチェスター司教(英語版)と収入の多い聖職禄を獲得、1521年にはセント・オールバンズ修道院(英語版)からの収入も確保、1万ポンドにも上る収入を腹心たちへの金のばら撒き、ハンプトン・コート宮殿などの建築に浪費した。また愛人ジョアン・ラーク(英語版)との間に庶子トマス・ウィンター(英語版)を儲け、この庶子に便宜を図り2500ポンドを使ったという[5][6]

1515年にヘンリー8世の妹メアリーが夫のフランス王ルイ12世亡き後に許可無くサフォーク公チャールズ・ブランドンと再婚、王の怒りを買い窮地に陥ったサフォーク公と王の間を取り成してもいる。反面、1521年にバッキンガム公エドワード・スタッフォードに謀反の疑いありと王に通報、王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に男児が無く、王位継承問題で猜疑心を募らせていた王が王家と血縁があるバッキンガム公を処刑するきっかけを作った(バッキンガム公本人はウルジーら卑賎の出の廷臣を見下していたが、王位に興味が無かったという)[7]
外交と内政改革

国政の細部に無関心な王から実務を任され、外国使節の間で「もう1人の国王」と渾名されたが、実際の王は外交・軍事に関しては積極的に関与、政事を自ら裁可することもあった。かたやウルジーは王の支持だけが基盤のため、彼の意向を忠実に汲み取り従うしか無かった。また教皇の地位を狙い、1521年のレオ10世死去、1523年のハドリアヌス6世死去で行われたコンクラーヴェに出馬したとされるが、ローマ教皇庁への連絡が疎かだと教皇と同輩の枢機卿から苦情が上がっていたこと、出馬はヘンリー8世の方が積極的でウルジー本人は不出馬を明言したことなどから否定されている。2度のコンクラーヴェで教皇はそれぞれハドリアヌス6世(1522年)、クレメンス7世(レオ10世の従弟、1523年)が選出されたが、後にヘンリー8世は離婚問題でクレメンス7世と決裂することになる[8]

外交はヨーロッパ諸国の調停者となることでイングランドの国際的地位を高めることを画策、そうした意図で1518年のロンドン条約(英語版)を諸国との間で締結した。初めフランス王フランソワ1世とヘンリー8世との和睦になるはずだった話を、オスマン帝国に対する十字軍結成を教皇レオ10世が呼びかけたことを利用、教皇特使の地位を活用してキリスト教諸国の団結を目的にした同盟に纏め、批准国が20か国にもおよぶ平和条約へと規模を拡大させたのである。セント・ポール大聖堂で各国大使が一堂に会したイングランドの首都ロンドンは一時的ながら脚光を浴び、ウルジーは主君ヘンリー8世の国際的地位を上げて得意の絶頂に浸る一方で、フランスに60万クラウンでトゥルネーを返す実利も獲得している。1519年神聖ローマ皇帝選挙でヘンリー8世に出馬を決意させたが当選はならず、ハプスブルク家スペイン王カルロス1世が皇帝カール5世に選出、イングランドは栄光から一転してスペイン・神聖ローマ帝国を治めるハプスブルク家とフランスの間で翻弄されることになる[5][9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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