トマス・アクィナス
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トマス・アクィナス
トマス・アクィナス像、15世紀、カルロ・クリヴェッリ作
生誕1225年
シチリア王国ロッカセッカ
死没1274年3月7日
シチリア王国・フォッサノヴァ
崇敬する教派カトリック教会聖公会
列聖日1323年7月18日
列聖場所 フランス アヴィニョン
列聖決定者ヨハネス22世
主要聖地フランス・トゥールーズのジャコバン教会(英語版)
記念日1月28日
守護対象カトリック学校大学[1]
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トマス・アクィナス別名Doctor Angelicus (神の使いのような博士)
時代中世哲学
地域西洋哲学
出身校モンテ・カッシーノ修道院
ナポリ大学
パリ大学
学派スコラ学
トマス主義
アリストテレス主義
主知主義
実在論
en:Moderate realism
素朴実在論
徳倫理学
自然法
真理の対応説[2]
研究分野

形而上学

論理学

神学

心の哲学

認識論

倫理学

政治哲学

不動の動者

主な概念

自然法

en:Five proofs of God's existence

en:Analogia entis

en:hylomorphism

en:Divine simplicity

en:Peripatetic axiom

二重結果の原理

en:Homo unius libri

en:Infused righteousness

主知主義

en:Quiddity

en:Just price

en:Determinatio

en:Actus purus

en:Actus Essendi

en:Thomistic sacramental theology

影響を受けた人物



ソクラテス

プラトン

アリストテレス

キケロ

パウロ

アウグスティヌス

ボエティウス

グレゴリウス1世 (ローマ教皇)

偽ディオニュシオス

イブン・スィーナー[3]

アンセルムス[4]

ガザーリー[5]

イブン・ルシュド[6]

マイモニデス

アルベルトゥス・マグヌス

ペトルス・ロンバルドゥス


影響を与えた人物

以後の西洋哲学とカトリック神学の事実上すべて

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トマス・アクィナス(: Thomas Aquinas、1225年頃 - 1274年3月7日)は、中世ヨーロッパイタリア神学者哲学者シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。

カトリック教会聖公会では聖人、カトリック教会の教会博士33人のうち1人。イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ (Tommaso d'Aquino) とも表記される。
生涯

1225年ごろ、トマスは南イタリアの貴族の家に生まれた。母テオドラは神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン家につらなる血筋であった。生まれたのはランドルフ伯であった父親の居城、ナポリ王国アクイーノ近郊のロッカセッカ城であると考えられている。伯父のシニバルドはモンテ・カッシーノ修道院の院長をしていたため、やがてトマスもそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待されていた。修道院にはいって高位聖職者となることは貴族の子息たちにはありがちなキャリアであった[7]

こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。初期の伝記によれば、家族は若い女性を送り込み、トマスを誘惑させたが、トマスはそれを追い払った[8]

ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されるとトマスはケルンに学び、そこで生涯の師とあおいだアルベルトゥス・マグヌスと出会った。おそらく1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年同地ですごし、1248年に再び二人でケルンへ戻った。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった[9]。トマスは非常に観念的な価値観を持つ人物であり、同時代の人と同じように聖なるものと悪なるものをはっきりと区別するものの見方をしていた。あるとき、自然科学に興味があったアルベルトゥスがトマスに自動機械なるものを示すと、トマスは悪魔的であるとしてこれを批判した。

1252年にドミニコ会から教授候補としての推薦を受けてパリに赴き、規定に則り講師として数年講義を行うことで学位(教授認可)を取得しようとしたが、当時パリ大学の教授会は托鉢修道会に対して敵対的であり、学位取得は長引いた[10]。講師として教鞭を執りながら取得を待ったトマスは1256年は学位を取得してパリ大学神学部教授となり[11]1257年には正式に教授会に迎え入れられた[12]


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