トブルク包囲戦
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トブルク包囲戦


戦争:北アフリカ戦線
年月日:1941年4月10日 - 11月27日
場所:イタリア領リビア トブルク
結果:連合国の勝利
交戦勢力
オーストラリア
イギリス

イギリス領インド帝国

西側ポーランド軍(英語版)
自由チェコスロバキア軍 ドイツ国
イタリア王国
指導者・指揮官
レスリー・モースヘッド(英語版) (1941年9月まで)
ロナルド・スコビー(英語版) (1941年9月から) エルヴィン・ロンメル
戦力
27,000人35,000人
損害
5,98912,296
航空機 74?150
北アフリカ戦線


エジプト侵攻

メルセルケビール海戦

ダカール沖海戦

コンパス作戦

ゾネンブルーメ作戦

トブルク

ブレビティ作戦

バトルアクス作戦

クルセーダー作戦

ガザラ

ビル・ハケイム

アラム・エル・ハイファ

アグリーメント作戦

エル・アラメイン

トーチ作戦

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トブルク包囲戦(トブルクほういせん、: Siege of Tobruk)は、ゾネンブルーメ作戦に基づき、1941年4月10日から11月27日まで行われたドイツアフリカ軍団によるトブルクの包囲。

コンパス作戦(1940年12月8日?1941年2月9日)によりイタリア第10軍(英語版)を撃破したイギリス連邦諸国軍を含むイギリス軍は、べダ・フォム(英語版)にて残存部隊の機動包囲作戦(英語版)を行っていた。しかし、1941年頭、イギリス西部砂漠軍(英語版)(WDF)主力はギリシャシリアに派遣され、リビアのドイツ軍やイタリア軍とは対照的に武器と補給品も不足していた。そんな中発動されたゾネンブルーメ作戦により、連合軍はエジプト領内への退却を強いられる。一方、オーストラリア軍第9師団(英語版)からなる守備隊はトブルクに残存しており、WDFが再編し反攻体制をとれるまで港湾の防御を担っていた。4月10日、そこにエルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ軍が侵攻。ブレヴィティ作戦(英語版)(5月)、バトルアクス作戦(6月15日?)を経てクルセーダー作戦を実行。

枢軸国側に奪われたトブルク占領地域の供給港は、イギリス空軍の爆撃圏内にあったベンガジより900キロ、トリポリより1500キロエジプトとの国境線に近かった。包囲戦により枢軸軍は国境から迂回し、トブルク守備隊は枢軸軍の数度にわたる攻撃を撃退した。港は砲撃や、エジプトから飛来する英空軍の急降下爆撃機や中型爆撃機の援護爆撃を頻繁に受けた。また、英国の地中海艦隊(沿岸艦艇も含む)などの連合国海軍は海上封鎖を行い、増援部隊と補給物資を運び、負傷者や捕虜を収容した。11月27日、トブルクはクルセーダー作戦により第8軍(1941年9月から西部砂漠戦線の英国軍およびその他の連合軍地上戦力を隷下におく)によって包囲解除された。

しかしその後、ドイツ軍は1942年6月に再びトブルクを包囲し、これを占領した。4万5000名以上の捕虜と1000両以上の戦車、野砲を破壊ないし鹵獲し[1]、ドイツ軍は次なる拠点エル・アラメインに迫った。
目次

1 背景

1.1 地形

1.2 トブルクの制圧


2 戦闘序列

2.1 枢軸国

2.2 連合国


3 前兆

3.1 ゾネンブルーメ作戦

3.1.1 メチリ陥落


3.2 枢軸軍の補給事情

3.3 トブルク要塞の備え


4 包囲戦

4.1 トブルクへの戦力投入


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