トニー・ペレス
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その他の同名の人物については「トニー・ペレス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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トニー・ペレス
Tony Perez2008年のMLBオールスターゲームのパレードにて
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 キューバ
シエゴ・デ・アビラ州シエゴ・デ・アビラ
生年月日 (1942-05-14) 1942年5月14日(82歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1960年
初出場1964年7月26日
最終出場1986年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴


シンシナティ・レッズ (1964 - 1976)

モントリオール・エクスポズ (1977 - 1979)

ボストン・レッドソックス (1980 - 1982)

フィラデルフィア・フィリーズ (1983)

シンシナティ・レッズ (1984 - 1986)

監督・コーチ歴


シンシナティ・レッズ (1987 - 1993)

フロリダ・マーリンズ (2001)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2000年
得票率77.15%
選出方法BBWAA選出
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

アタナシオ・ペレス・リガル(Atanasio Perez Rigal, 1942年5月14日 - )は、キューバシエゴ・デ・アビラ州出身の元プロ野球選手選手(一塁手)。右投右打。1960年代1970年代にかけて、持ち前の強打でシンシナティ・レッズの黄金期を支えた。

息子は日本NPB阪神タイガースにも在籍したエドゥアルド・ペレス[1]
経歴
出生から渡米まで

ペレスは1942年5月14日キューバシエゴ・デ・アビラ州シエゴ・デ・アビラ砂糖キビ農家に生まれる。少年時代より家の手伝いもしており、一方でペレスの実父がサトウキビ農家・会社中心で野球チームを結成していたことから野球に親しみ、ペレスも10代になってからは父のチームでショートストップを守るようになっていた。

1960年、17歳のペレスのいる会社チームを視察していたシンシナティ・レッズのスカウト・トニー・ペチェコの目にとまり、契約。レッズ傘下のマイナーチーム・ハバナ・シュガーキングス[2]でプレーすることになったが、同時にボーナスとしてアメリカ行きのビザマイアミ行きの飛行機のチケットをペレスは得ていた。
渡米後、マイナーリーグ時代(1960年 - 1964年)

契約してそのままアメリカに渡ったペレスは、タンパのレッズのスプリング・トレーニングに参加。その後マイナーでプレイすることになり、傘下のD級チーム(ニューヨーク州ジュネーブにあった)にて二塁手としてデビューする。その後6月に、後にチームメイトになるピート・ローズが二塁手に入ったため、ペレスは三塁手にコンバートされたが、同年は104試合出場して打率.279、6本塁打の成績だった。

1961年もジュネーブのチームでプレーし、121試合出場、打率.348、27本塁打の好成績を挙げ、1962年はB級チームにて100試合出場、打率.292、18本塁打、74打点を記録し、1963年はAA級マコン・ピーチズにて69試合出場、打率.309、11本塁打、48打点を記録したあと、 AAA級サンディエゴ・パドレス[3]にて8試合出場、打率.379、1本塁打、5打点を記録した。

1964年、引き続きパドレスから始動し、この年より一塁手にコンバートされたペレスはパシフィックコーストリーグのMVPを受賞しており、打率.309、34本塁打、107打点を記録していたところで、同年7月26日、ついにレッズに昇格。ダブルヘッダー第2戦でメジャーリーグデビューを果たす。
シンシナティ・レッズ時代(1964年 - 1976年)

レッズ初年度の1964年から1966年の3シーズンの間はプラトーンをチームで行っていたこともあり、ペレス以外にも一塁手が2人いて出場しては控えが続いた。それでも1965年シーズン開幕第2戦にてペレスの打ったメジャー初本塁打は満塁本塁打だった。

1967年よりマイナー時代に守った三塁手にコンバートされると、これよりレギュラーに定着。156試合に出場して打率.290、26本塁打、102打点を記録し、持ち前の打撃で主力打者となる。この年MLBオールスターゲーム初出場を果たし、MVPに選ばれた。

1970年は打率.317、40本塁打、129打点といずれも自己最高の成績を残す。その翌1971年にはアメリカ合衆国国籍を取得した。

1972年より再び一塁手にコンバート、そしてこの当時はレッズの黄金時代である「ビッグレッドマシン」の異名をとるほどの最強チームの1つで、アメリカ野球殿堂入りの名監督スパーキー・アンダーソンの下、ペレスのほか、大リーグ最多安打記録保持者のピート・ローズ(三塁手)や、いずれも後に殿堂入りしたジョー・モーガン(二塁手)、ジョニー・ベンチ(捕手)、そして強打者ジョージ・フォスターや名遊撃手デーブ・コンセプシオン等のスター選手を擁し、1975年1976年と2年連続でワールドシリーズ制覇を果たしている。
3球団所属時代(1977年 - 1983年)

1977年、一塁手を若いダン・ドリーセンに譲り、モントリオール・エクスポズ(現在のワシントン・ナショナルズ)に交換トレードで移籍。この移籍について、アンダーソン監督は「ペレスがチームリーダーでチームの支柱だった。


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