トニー・フェルナンデス_(実業家)
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トニー・フェルナンデス
Tony Fernandes
エアアジアのフェアにて(2008年)
生誕Anthony Francis Fernandes
(1964-04-30) 1964年4月30日(60歳)
マレーシアクアラルンプール
国籍 マレーシア
出身校 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
職業企業家、実業家
純資産7.4億ドル(2018年時点)
肩書きエアアジア・グループCEO
ケータハムF1チーム創設者
英プロサッカークラブ「QPR」代表
ほか
受賞大英帝国勲章CBE
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トニー・フェルナンデス(:Anthony Francis "Tony" Fernandes, CBE1964年4月30日 -)は、マレーシアの企業家。東南アジア地区を中心にアジアを網羅している格安航空会社エアアジア・グループ」の最高経営責任者(CEO)。2011年大英帝国勲章を受勲。
生い立ちと経歴

1964年4月30日、マレーシアのクアラルンプールでインド(ゴア人)系アメリカ人の父親と、マラッカのマレー系ポルトガル人の母親の間に生まれる。幼い頃はビジネスウーマンであった母親に連れられ、タッパーウェア社のディーラーのパーティーや集会に顔を出していた。

地元の英国系教育機関「ザ・アリススミス・スクール」で教育を受け、英留学して1977年から1983年まで本校の「エプソム・カレッジ(Epsom College)」で学び、「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス」に進学して1987年に卒業する。その後は短期間、ヴァージン・アトランティック航空監査役(Auditor)として働いた。

マレーシアに帰国後、ワーナーミュージックマレーシア社(Warner Music (Malaysia) Sdn Bhd)で、史上最も若いマネージング・ディレクターとなった。1992年から2001年まで、ワーナーミュージックグループの東南アジア地区担当副社長を務めたものの、ワーナーミュージックの親会社タイム・ワーナーAOLとの合併を発表後、格安航空会社(LCC)設立の夢を追い、退職した。

2001年10月、当時のマレーシアの首相マハティール・ビン・モハマドから、地元の航空会社・エアアジアの買収を進言された。当時のエアアジアは、マレーシア政府系の重工業会社DRB-ハイコムの傘下に入っており、ボーイング737-300を2機所有していたが、業績の低迷により1100万USドル(以下ドル)の負債を抱え、経営破綻状態に陥っていた。マハティールが同社の存続を望んでいたことから、進言を受けたトニーは貯蓄をはたき、持ち家を抵当に入れた上で、1リンギット (約30円/26セント))で買収した。

ちょうどアメリカ同時多発テロ事件の起きた直後であり、航空業界にとっては最悪の時期であった。誰もがエアアジアの経営破綻を予言し、トニーを「クレイジー」と思っていた。しかし、事業継続1年後、エアアジアはすべての負債を完済した。飛行機のリース料は40 %も下がっていて、また他の航空会社が行ったレイオフにより、経験者の採用が容易であった。トニーはのちに「買収のタイミングはパーフェクトだった」と語った。

2007年には、クアラルンプールに最初の格安ホテルチェーンのチューン・ホテルズを開業させ、今後マレーシアや東南アジアを中心に店舗網を拡大する計画である。F1オーナー時代(2011年)

また、2010年のF1世界選手権よりF1に参入した「ロータス・レーシング(現:ケータハムF1チーム)」のチーム代表も務める。

F1の2010年シーズン開始前、トニーは今シーズンの目標は同じくこの年からF1に参入するヴァージン・レーシングより上位でシーズンを終える事であり、それが出来なければ引退し自殺するとコメントした。これに対し、ヴァージン・レーシングのボスであり、航空会社であるヴァージン・アトランティック航空などを経営するリチャード・ブランソンは、コンストラクターズランキングで負けたほうが勝ったチーム側の航空会社のスチュワーデス制服を着るとの賭けをトニーに提案した[1][2]。結局この賭けはブランソンの負けとなり、トニーからエアアジアの制服が支給された[3]


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