トニー・スチュワート
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トニー・スチュワート

トニー・スチュワート (Tony Stewart、1971年5月20日 - )はアメリカ合衆国インディアナ州コロンバス出身のレーシングドライバー。2002年、2005年及び2011年のNASCARスプリントカップ・シリーズのチャンピオン。

その豪快なパフォーマンスから日本国内では「NASCAR界の暴れん坊」と紹介される。現地での愛称はラッシュビルロケット、コロンブス彗星、スモークとも。
経歴

地元のカートレースで頭角を早くから現し、ミゼットシリーズ等を経て1996年インディ・レーシング・リーグ (IRL) に出走しながらNASCARのブッシュシリーズ(現:エクスフィニティ・シリーズ)に参戦。その後はIRLで通算3勝を挙げつつも、次第に活動の軸をNASCARに移行する。

最高峰シリーズにステップアップした初年度の1999年はデビューイヤーにもかかわらず幾度もトップ争いを繰り広げ、デビューしてから25戦目の秋のリッチモンドでデイビー・アリソン(英語版)が1987年に成し遂げて以来のルーキーによる優勝を遂げる[1]。その後のフェニックスでのレースも制し、史上2人目のルーキーシーズン2勝を達成した(これもアリソン以来)[2]。スチュワートの活躍はこれだけにとどまらず、ホームステッド=マイアミで行われたペンゾイル400でチームメイトのボビー・ラボンテ(英語版)を従え1-2フィニッシュでシーズン3勝目を飾りルーキーのシーズン最多勝記録を塗り替えることとなった[3]。このシーズンをランキング4位で終えたスチュワートは早くも将来のチャンピオン候補として注目されることとなる[4]

翌2000年はチームメイトのラボンテがチャンピオンを獲得しスチュワートはランキング6位[5]に留まるものの、そのラボンテがチャンピオンを決定したペンゾイル400を2年連続で優勝する[6]などシーズン最多の6勝を挙げた[7]

2001年は開幕戦のデイトナ500でビッグワンに巻き込まれるというシーズンスタートとなったものの、第11戦リッチモンドでシーズン初優勝[8]を挙げると第16戦ソノマではロードコース初優勝[9]を達成し、その後第24戦秋のブリストルでは春の同レースにおける波紋を跳ね除けての勝利を獲得しシーズン3勝目[10]を挙げるなどの活躍を見せた。その結果、チャンピオン争いには加われなかったものの終盤の活躍によりランキング2位を獲得した[11]。なお、この年の5月27日、1999年に次いで2度目の「ダブル(英語版)」に挑戦、インディ500に出場し6位完走[12]、同日に開催されたコカ・コーラ600も3位で完走[13]したため、史上初めて合計1,100マイルの「ダブル」を完走したドライバーとなった。

翌2002年はチャンピオンシップ争いが非常に激しいものとなった。ルーキーのジミー・ジョンソンライアン・ニューマンはデビュー戦からすぐさま競争力を発揮し、共に一時は選手権をリードする活躍を見せた。そんな中、スチュワートは開幕戦をエンジンブローでわずか3周で終えてしまい43位に終ってしまう[14]。その後スチュワートは第4戦アトランタで1勝目[15]をマークし、その後得意とするリッチモンドでの第11戦で2勝目[16]を挙げ、徐々にチャンピオン争いに加わるようになり、その後第22戦ワトキンズ・グレンでシーズン3勝目を獲得する[17]。しかし前述のジョンソンやニューマン、ラウシュの若手カート・ブッシュマット・ケンゼス、さらにはジェフ・ゴードンやマーク・マーティン(英語版)等のベテラン、そしてスターリング・マーリン(英語版)の存在によりポイント争いで足踏みしてしまう。スチュワートが初めてランキングトップに立ったのは第30戦タラデガ[18]であり,その後は不調に陥ったマーリンやジョンソンが脱落していったため(ゴードンもエンジンブローやクラッシュで脱落)、最後の3レースはマーティンとの一騎討ちとなり最終戦で18位フィニッシュ[19]を果たし38ポイント差でマーティンを抑えチャンピオンを獲得した[20]。開幕戦を最下位で終えたドライバーがチャンピオンとなるのはNASCAR史上初めてであった。

2005年には年間5勝を挙げ、2度目の年間タイトルを獲得[21]。翌2006年は惜しくもチェイス(プレーオフシリーズ)に残る事が出来ず、初の年間二桁順位に終わる[22]

2008年は第30戦タラデガでの1勝のみ、年間9位に留まる[23]。この年限りでジョー・ギブス・レーシングから離脱する。

2009年にハースCNCレーシングの共同オーナーとなり、チーム名をスチュワート=ハース・レーシングと改称した。同時にマシンを壊すと自分の懐に響くからという物もあり、今までのような暴れっぷりは無くなったが、上位で安定した結果を残し、テクニックは未だ健在であることを示す。2011年シーズンは上位入賞はあれど優勝できないレースが続くが、チェイスで5勝をあげ3度目のチャンピオンを獲得した[24][注 1]

2013年は第13戦ドーバーで勝利。8月4日の第21戦ポコノを終えた時点でポイントスタンディング11位とチェイス圏内にいたが、その翌日の8月5日、アイオワ州のサザンアイオワ・スピードウェイで開催されたスプリントカーレース(英語版)において周回遅れの車両とクラッシュし、右脚の脛骨と腓骨を骨折する重傷を負った[25]。この負傷により第22戦ワトキンス・グレンを欠場、1999年のカップシリーズ初参戦から続いていた連続出場は521戦で途切れた。結局、第23戦ブルックリン以降の全てのレースも欠場することとなり、2013年の総合順位はキャリアワーストの29位となった[26]

2014年8月9日、スチュワートはニューヨーク州のカナンデーグア・モータースポーツ・パーク(英語版)で開催されたスプリントカーレースの競技中に、ケヴィン・ウォード・ジュニア(英語版)を撥ねて死亡させる事故を起こした[27]。この事故を受けて、スチュワートはスプリントカップ・シリーズへの出場を第22戦から第24戦まで自粛した。スチュワートの代わりに第22戦ワトキンス・グレンはリーガン・スミスが、第23戦ブルックリンと第24戦ブリストルはジェフ・バートンが参戦した。結局この年は1勝もすることができず、チェイス入りを逃した[28]


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