トニー・スコット_(ジャズ・ミュージシャン)
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トニー・スコット
出生名Anthony Joseph Sciacca
別名Tony Scott
生誕
1921年6月17日
アメリカ合衆国
ニュージャージー州モリスタウン
死没 (2007-03-28) 2007年3月28日(85歳没)
ジャンルジャズ・ニューエイジ
担当楽器クラリネット、バリトン・サックス

トニー・スコット(Tony Scott、本名:アンソニー・シアッカ(Anthony Joseph Sciacca)、1921年6月17日 - 2007年3月28日)は、アメリカ合衆国出身のジャズクラリネットバリトン・サックス奏者。

元来はビバップ指向であったが、数十年に亘る世界の民族音楽、とくにアジア的な文化やヨガ瞑想などへの強い関心から、これらをテーマにした作品も多く、ワールド・ミュージックあるいはニューエイジ・ミュージックの範疇に加えられることもある。
目次

1 来歴

2 ディスコグラフィ

2.1 リーダー作品

2.2 共演作品


3 関連項目

4 参考文献

5 外部リンク

来歴

ニュージャージー州モリスタウンシチリア系移民の家系に生まれる。12歳でメタル・クラリネットを始め、14歳には最初のバンドを組む。ピアノをマスターすると18歳でハーレムでのセッションでプレイした。3年間ジュリアード音楽院に通ったのち、ニューヨークのミントンズ・プレイハウスを演奏拠点とする。戦時下(第2次世界大戦)には、3年間陸軍バンドに所属した。

1943年にチャーリー・パーカーと出会い、新しいビバップ・スタイルのサックス演奏に大きな刺激を受け、彼自身もバップを演奏する数少ないクラリネット奏者の1人となった。パーカーとはしばしば共演したこともあり、のちに「偉大なミュージシャンというだけではなく、パーカーは世紀の巨人である」とも語り、また1957年のユーゴスラビアでのコンサートの際には『パーカーに捧げるブルース Blues for Charlie Parker』として即興演奏を行い、彼の名演のひとつとなっている 。

1950年のサラ・ボーンとのセッション(マイルス・デイヴィスも参加)は評価も高く、以降の10年程は、ビリー・ホリディベン・ウェブスターバディ・リッチなどと共演、またバンドリーダーとしてメンバーであるディジー・ガレスピーとともに、バップからクール・ジャズの時代を、独自のインプロヴィゼーションの手法を武器に広く活躍した。駆け出し中であったビル・エバンスのトリオ(b: スコット・ラファロ、ds: ポール・モチアン)をリズム・セクションに従え、トニー・スコット・クヮルテットとして『サング・ヒーローズ Sung Heroes』(1959.10 Sunyside) の録音も遺している。

50年代後期('55・'57・'58・'59)には、ジャズ系音楽雑誌「ダウンビート」の批評家投票に選出され、同じクラリネット奏者であるバディ・デフランコよりも「クール」と評され、トップの座を競った。しかしながら、ビバップの出現以降、かつてジョージ・ルイスウディ・ハーマンアーティ・ショウベニー・グッドマン等々、ニューオーリンズの創世記からスウィングビッグバンドまで多数のリーダーを輩出してきたクラリネットという楽器も、ジャズの世界ではその影が薄れてしまい、トニー・スコットの認知度も低くなっていった。

1959年、それまで本拠地としていたニューヨークを離れ、のち演奏旅行で何度か訪れる以外には米本国での活動に見切りをつける。

1960年代には東南アジアを旅しヒンドゥー教仏教の寺院などを訪ね歩く。また、5年ほどの日本滞在期間中(1959年 - 1965年)に和楽器(尺八)とのコラボレーションを行ない、ヴァーヴ・レコードから『禅瞑想のための音楽 Music for Zen Meditation』(1964年)を発表する。いっぽうで、p:菅野邦彦、b:鈴木勲、ds:ジョージ大塚のトリオをバックに演奏活動もおこなった。

1960年には、米本国でのバディ・デフランコへの人気もさりながら、ダウンビート誌の投票では最優秀クラリネット奏者として日本での彼の業績が評価された。


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